中村 哲【ペシャワール会現地代表】 国際部門

受賞年月

平成16年2月

受賞理由

多年、パキスタン・アフガニスタン辺境地域の医療活動並びに農村復興事業に献身的な業績を挙げ国際平和に尽くせる功績

受賞者の経歴

【学歴】
昭和48年(1973) 九州大学医学部卒業(医学士)
昭和57年(1982) 神経病学専門医
昭和59年(1984) 英国リバプール熱帯医学校 熱帯医学専門医(DTM&H)
【職歴】
昭和48年(1973) 国立肥前療養所
昭和50年(1975) 大牟田労災病院
昭和59年(1984) ペシャワール・ミッション病院らい病棟担当(パキスタン,ペシャワール)
平成  3年(1991) 福岡・馬場病院副院長
平成  6年(1994) ぺシャワール会医療サービス病院院長(パキスタン,ペシャワール) ペシャワール会現地代表
平成14年(2002) ペシャワール会医療サービス病院総院長(パキスタン,ペシャワール)
同          ペシャワ-ル会現地代表(現在に至る)
【受賞】
昭和63年(1988) 外務大臣賞(外務省)
平成  4年(1992) 毎日国際交流賞(毎日新聞)
平成  5年(1993) 西日本文化賞(西日本新聞)
平成  6年(1994) 福岡県文化賞(福岡県)
平成  8年(1996) 厚生大臣賞(厚生省)
平成  8年(1996) 読売医療功労賞(読売新聞)
平成10年(1998) 朝日社会福祉賞(朝日新聞)
平成12年(2000) アジア太平洋賞特別賞(毎日新聞・アジア調査会)
平成13年(2001) 第7回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞(PCJF)
平成14年(2002) 日本ジャーナリスト会議賞(日本ジャーナリスト会議)
平成14年(2002) 若月賞(佐久総合病院)
平成14年(2002) 第1回沖縄平和賞(沖縄県)
平成15年(2003) 大同生命地域研究特別賞(大同生命保険株式会社)
平成15年(2003) ラモン・マグサイサイ賞(平和・国際理解部門)
【著書】
平成  2年 「ペシャワールにて」石風社
平成  6年 「ダラエヌールへの道」石風社
平成  6年 「アフガニスタンの診療所から」筑摩書房
平成11年 「医は国境を越えて」石風社
平成13年 「医者井戸を掘る」石風社
平成14年 「中村 哲さん講演録 平和の井戸を掘る」ピースウォーク京都
平成14年 「ほんとうのアフガニスタン」光文社
平成15年 「辺境で診る辺境から見る」石風社
平成15年 「医者よ、信念はいらない まず命を救え」羊土社

受賞者の業績

中村医師は1946年福岡市に生まれ、1973年九州大学医学部神経科を卒業後、医局に残らず国立肥前療養所、大牟田労災病院に勤務、当時三池炭坑爆発による脳障害患者に対する研修医として神経内科の勉強を積んだ。 たまたまパキスタン北西辺境州の州都ペシャワール・ミッション病院で医師を求めており、1984年4月日本キリスト教海外医療協会から派遣されて同病院に赴任した。当初らい(ハンセン病)のコントロール病棟の責任者となった同氏は、辺境の村落を調査して、無医地区の診療に取り組むことに成った。
氏は学生時代、山岳会員でパキスタン北西部のカラコルム山脈・ヒマラヤ山脈と出会うヒンヅークシュ山脈のテェリチ・ミール<7706m>にも
アッタクされたこともあって、とりわけ素朴なパキスタンの民族や土地柄に好感を持っておられたようです。
ソ連侵攻によって起こったアフガン戦争が激化して、カイバル峠を主としてペシャワールに流入して来る難民のためにハンセン病をはじめマラ
リアその他の感染症を含めた治療に当たるとともに、アフガニスタン側でも診療所をせつえいした。
また中村医師は辺境の地での自らの体験を日本の新聞や自著に綴り、日本国内での著作や精力的な講演活動を通じて現地活動を支援する
資金を集め、活動は徐々に拡大していった。
そして1998年、拠点病院として70床(地下1階、地上2階1,000坪)のペシャワール会医療サービス(PMS)病院を建設するに至った。この基地病院とアフガニスタン東部山岳地帯の3カ所(マワ、ダエル・ピーチ、ダエル・ヌ=ル)の診療所とパキスタン北部ラシュトの診療所で、同医師をはじめとする日本人ワーカ-5名と現地スタッフ(パキスタン人、アフガニスタン人)120名は、総合医療を低料金で提供しており、年鑑診療数は20万人に達している。2000年から続く旱魃と2001年11月から始まったアメリカによる空爆のためアフガン民衆の生活はさらに困窮を極めた。中村医師はカブールで餓死寸前の難民に小麦粉と食用油を配る食料配給プロジェクト「アフガンいのちの基金」を開始して、約15万人に1,400トンの小麦粉を配った。
中村医師は医療活動や緊急支援に先立って、「貧困の根源を解決する必要がある」と、長年の医療活動から学んだ。また、2000年7月からアフガニスタンをおそった旱魃被災地域での水源の確保(井戸、地下水路)再生事業に医療活動の一環として取り組んでいる。現地のワーカー約700人、日本人ワーカー10人である。現在までアフガン東部で1,000を超える井戸を掘り、これにより25万人ほどの村民が斑を放棄することなく生活を維持しているのである。
2002年から、国民の約80%が農民と言われるアフガニスタンの復興プロジェクトとして「緑の大地計画」を開始、医療活動に加え水源確保、農業支援事業を本格化している。2003年3月からは井戸掘りだけでなく、農業用水確保のため16kmの灌漑用水路の建設を始めた。
ペシャワール会は事務局を福岡に置き、中村医師のパキスタン、アフガニスタンに於ける「誰も行かないところへ行く、他人がやりたがらないことをやる」ということを基本に、医療活動を続けており、これを支援するために発足したNGO(民間援助団体)である。現地プロジェクトを全面的に支援するために日本国内で主に(1)募金活動(2)広報活動(3)ワーカー派遣の3つの活動をしている。
会員数は、全国で12,000名、日本国内での経費を極力切り詰め、寄せられた資金の95%をが現地プロジェクトに投入されている。
東西冷戦下、ソ連の侵攻、またタリバンがテロリストをかくまったとの理由で、首都カブルーへに対するアメリカの報復爆撃と国連制裁、そして中央アジア全域 をおそった大旱魃でアフガニスタンの被災者は1,200万人といわれ、全人口2,000万人のうち600万人近くが難民として故国を離れた。(同じパシュ ウト族のいるパキスタンへ300万人、イランへ200万人)
愛してやまぬ峻険な山々に囲まれた地にあって「政治、宗教、民族を超えた相互扶助を実践しようと奮闘している。われわれ人類にとって、これこそが平和の鍵だ」と同氏は信じている。
中村医師は「私たちは、次の世代に何を残そうとするのか?真剣に思い巡らす時代にあることを知るべきである。私たちはPeshawar-kai Medical Service(ペシャワール会医療サービス)現地事業の軌跡のひとつの灯火となることを祈るばかりである」と述べている。

授賞理由

中村医師は、冷戦下最後の代理戦争といわれるアフガン戦争のさなか難民化したアフガニスタン人の救済、とりわけハンセン病やマラリヤなどの感染症の治療をパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールを基地に行ってきた。その活動はPMS拠点病院の建設と、アフガニスタン東部山岳地帯3ヵ所ほか診療所開設をはじめ「アフガンいのちの基金」による飢餓難民への食料援助、更に1,000を超える井戸掘りと灌漑用水路の建設「緑の大地計画」など20年に亘って精力的に続けてきた。このことは既に地元住民をはじめ世界の医師、支援団体、識者の信頼と賞賛を博しているところである。
今日、我が国においても国際貢献におけるNGO(民間援助団体)の役割が重視されて注目を浴びている。ペシャワール会の現地代表としての活動は筆舌に尽くしがたく、長年に亘るその業績は顕著である。


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