中村昌生【京都工芸繊維大学名誉教授・福井工業大学名誉教授】 文化・社会部門

 

受賞年月

平成28年2月

受賞理由

現代日本における茶室・数寄屋建築研究の第一人者として、茶室・数寄屋等の日本伝統建築の復元保存、設計管理並びに伝統建築技術の継承・発展に尽くした数々の功績

受賞者の経歴

【主な職業】
京都工芸繊維大学名誉教授
福井工業大学名誉教授
一般財団法人京都伝統建築技術協会理事長 

【学  歴】
 昭和22年3月 彦根工業専門学校建築科(現滋賀大学)卒業

【学位・称号】
工学博士

【経  歴】
昭和24年 京都大学工学部助手
昭和37年 京都工芸繊維大学工芸学部助教授
昭和48年 京都工芸繊維大学教授
昭和51年 桂離宮整備懇談会委員(宮内庁)(~昭和58年)
昭和55年 財団法人京都伝統建築技術協会設立発起人代表
昭和55年 京都工芸繊維大学付属図書館長・評議員(~昭和57年)
昭和55年 京都工芸繊維大学美術工芸資料館長(~平成3年)
昭和60年 京都府木造住宅推進協議会委員・会長(~平成元年)
昭和61年 財団法人博物館明治村評議員(~平成26年)
昭和61年 京都府文化財保護審議会委員(~平成16年)、文化財保護審議会専門委員(~平成15年)
昭和62年 京都市文化財保護審議委員(~平成17年)、京都工芸繊維大学評議員(~平成3年)
平成  2年 滋賀県文化財保護審議会委員(~平成13年)
平成  3年 京都工芸繊維大学定年退官、京都工芸繊維大学名誉教授、
平成  3年 福井工業大学教授、京都迎賓館建設懇談会委員(~平成17年)
平成  4年 財団法人京都伝統建築技術協会理事長(現在に至る)
平成  9年 池坊文化学院院長(~平成15年)
平成14年 福井工業大学退任、福井工業大学名誉教授
平成15年 京都迎賓館伝統的技能検討委員会委員長(~平成17年)
平成18年 京都迎賓館運営懇談会委員(現在に至る)
平成23年 一般社団法人伝統を未来につなげる会理事長(現在に至る)

 【過去における表彰】
昭和46年 日本建築学会賞(論文賞)
平成  2年 京都新聞学術文化賞
平成  3年 日本芸術院賞
平成10年  京都市文化功労者
平成12年  淡々斎茶道文化賞
平成13年  圓山記念文化賞
平成18年  京都府文化賞特別功労賞

 【主要著書】
昭和40年 「茶の美術」(共著)平凡社
昭和42年 「茶室おこし絵図集」(全12巻・共著)墨水出版
昭和43年 「茶の建築」 河原書店
昭和46年 「茶匠と建築」鹿島出版社
昭和46年 「茶室の研究」墨水出版
昭和46年 「京の町家」駸々堂出版昭和47年 「茶室と露地」小学館
昭和49年 「日本建築史基礎資料集成・茶室」中央公論美術出版
昭和51年 「京の坪庭」駸々堂出版
昭和52年 「座敷と露地」新潮社
昭和55年 「茶室大観Ⅰ~Ⅲ」創元社
昭和55年 「京の座敷」駸々堂出版
昭和55年 「茶の庭」講談社
昭和57年 「茶室百選」淡交社
昭和58年 「茶苑の意匠」毎日新聞社出版局
昭和60年 「数寄屋建築集成」(全9巻)小学館
昭和61年 「数寄の工匠・京都」淡交社
昭和63年 「数寄屋邸宅集成」(1~3集)毎日新聞社出版局
平成 元年 「数寄屋古典集成」(全4巻)小学館
平成  2年 「現代の数寄屋―公共施設集―」毎日新聞社出版局
平成  4年 「待庵・如庵」新潮社
平成  5年 「待庵」淡交社
平成12年 「数寄の空間」淡交社
平成12年 「茶室の研究―六茶匠の作風を中心に―」河原書店
平成20年 「茶室集成」淡交社

【作 品】
昭和53年 青岸渡寺 瀧寿軒(和歌山県那智山)
昭和54年 山形市宝紅庵(山形市)
昭和59年 大濠公園日本庭園茶室(福岡市)
昭和60年 ホテルクリオコート博多 聚美苑(福岡市)
昭和61年 犬山有楽苑内 弘庵(愛知県犬山市)
昭和62年 新宿御苑 楽羽亭(新宿御苑)
昭和63年 岐阜公園茶室 青翠庵(岐阜市)
昭和63年 京都府立京都府民ホール茶室(京都市)
平成 元年 岡崎城址公園 葵松庵(愛知県岡崎市)
平成 元年 山寺芭蕉記念館(山形市)
平成元年 白鳥公園茶室 清羽亭(名古屋市)
平成元年 万葉亭(ゴルフ場茶室)(岐阜県八百津)
平成  2年 花博日本庭園茶室 むらさき亭(大阪市)
平成  2年 スウェーデン国立民族博物館茶室 瑞暉亭(ストックホルム)
平成  3年 出雲市文化伝承館 独楽庵(島根県出雲市)
平成  3年 熊本市武蔵塚公園茶室(熊本市)
平成  4年 寒河江市チェリーランド茶室 臨川亭(山形県寒河江市)
平成  5年 宇治市茶室 対鳳庵(京都府宇治市)
平成  6年 四日市市 四翠庵(三重県四日市市)
平成  6年 酒田市 出羽遊心館(山形県酒田市)
平成  9年 熊本市白川公園茶室(熊本市)
平成10年 花フェスタ記念公園茶室(岐阜県可児市)
平成11年 中央工学校軽井沢研修所茶室(長野県軽井沢市)
平成13年 ギメ美術館茶室(パリ)

受賞者の業績

氏の業績は、次のとおりである。

日本の建築は、日本の近代化と共に西洋建築が導入され、それが主流となって現代建築に発展した。木造の伝統建築が辛うじて日本建築の伝統を繋いでいる。断絶した歴史を、太古以来の日本建築の歴史と繋ぐために、日本建築の根底を貫く伝統(不易の原理)を究明することが、氏の研究の目的であった。
日本建築の様式と技術を「真・行・草」の展開と捉え、草の建築(数寄屋建築)を取上げ、茶室における茶匠の仕事について研究(註1)、次の成果を挙げた。
利休は「茶の湯は路地入」から始まる、即ち露地と茶室から成る茶の空間は一体であると説いた。これは単に茶の湯に限ったことではなく、奈良時代の貴族の住宅から寝殿造、書院造へ、さらに桂離宮など数寄屋造へ、また民家や町家にも、日本の住居を貫く、自然との共生に培われた伝統であった、そのような「庭屋一如」の伝統が、近代和風の住居、山荘などにも継承され、京都南禅寺界隈の山荘郡に開花したことに論及した(註2)。碧雲荘、清流邸は重文に指定された。京都迎賓館(平成17年竣工)も設計者(日建設計)の「庭屋一如」の伝統の継承により、現代和風の創出が実現された。「庭屋一如」論(註3)の特筆すべき成果であった。
真・行・草の建築には木割法があるが、草の建築には木割法は成立しない。柱も柱間寸法も不定で、柱の配置が自由であるからである。茶匠は柱の配置を決め、すべての部分を寸法(絶対値)によって決め組立てた。比例関係を基本とする近代の建築家の設計法とは異なる(註4)。威厳をあらわさない「和」の造形を追究した茶匠たちにとって、これは最適の設計法であり、そこに茶の思想と美意識のこめられていることを知った。1975年山形市に始まる各地の公共体から依頼された木造建築の設計は、何れも茶匠の仕事を追体験すべく、茶匠の設計法を実践した。それらは何れも茶道愛好者ら市民の公共利用の施設として計画されたもので、一連の施設を通じて「公共茶室」という呼称と共に、社会的存在としての茶室の新しい概念が生まれた(註5)。
茶匠の建築の史的研究から、実践的研究に連なる物づくりの成果(註6)は、公共茶室を通じて現代の文化に貴重な貢献を果たした。そこには利休以来茶の湯を通して茶匠たちが追求し、深く広く日本住宅に浸透した「和」の造形思想を継承し、「庭屋一如」と共に、未来にわたり断絶させてはならない日本の伝統が刻み込まれている。日本建築の未来に貴重な布石となろう。それは木造に限らず、構造、材料の相異を超えて継承出来る伝統である。

【註 釈】
(註1)主な研究成果として、「茶匠と建築」(鹿島出版会)、「茶室おこし絵図集」共著、「茶室の研究」(墨水書房)、「茶室と露地」(小学館)、「京の坪庭」(駸々堂出版)、「数寄屋古典集成」全4巻など。
(註2)「数寄屋邸宅集成」1~3巻(毎日新聞社)
(註3)名古屋市白鳥公園における本館清羽亭(平成元年竣工)は、造園家吉村元男氏設計の木曽川をテーマとしたユニークな園池の中に建設された公共茶室であり、これは当初から「庭屋一如」が課せられた施設であった。本館(広間棟)と茶室棟を廊下で繋ぎ、椅子席を洲の上に配置して、本館と渡り廊下で連結し、洲の上に広々と濡縁を設け、庭屋の融合を図った。清羽亭は日本芸術院賞を受賞した。
(註4)茶書や図など、茶室史料に伝えられる多くは寸法である。山田宗徧(1708年歿)の編んだ『利休茶道具図絵』(元禄15年刊)にも、茶室の展開図に詳細な寸法書を付している。茶室に限らず、他の諸道具においても寸法を記す。寸法によって、壁面や天井の構成、窓の配置なども決まる。寸法に、茶匠のその部分に対する思い入れや美的効果まで注入されるのである。寸法の決定には比例関係は殆ど伴わない。絶対値で決められた。起し絵図は茶匠の用いた設計図法である。そこには茶匠の「好み」を決定する寸法が記入される。名古屋の茶匠吉田紹清(吉田家4代)は、戦後まで起し絵図を作成して茶室を好んでいた。茶匠によって起し絵図に盛り込まれた茶匠の創意に基づいて工匠が施工する。工匠は平面図と間(かん)杖(じょう)で建物を組立てる。間杖には立体を組立てる情報が盛り込まれる。建築図面で言えば矩計(かなばかり)図に相当する。氏の設計法はこうした茶匠と工匠の技術を活用し、矩計によって建物の姿を整える工夫を凝らした。茶匠は高く聳え立つ外観を求めない。これは和風建築の理想でもあった。諸条件を充たしつつ極力高さを抑えることは難しい。そのために茶匠、工匠の技術を使うことは有効である。立松久昌氏(建築雑誌編集者)が、「中村の作品の中では山形市宝紅庵が最もよい」と評された。氏にとって最初の公共茶室で、確かに慎重を極めた作業の記憶がある。緻密に高さを抑え切ることの出来たことが立松氏の批評眼に適ったものと思われる。
(註5)平成5年(1994)『公共茶室 ―中村昌生の仕事― 』(建築資料研究社)が刊行された。
冒頭に「茶の心の具象」と題した久田宗也氏の文中に次のように述べられている。
“博士の「公共茶室」は「茶道一般」というべき主旨を基本にもち、「茶道一般」という原理から生まれた茶室なるがゆえに、「公共茶室」となり得るのであろう。この「茶道一般」とは流派を超え、個人の茶人の好みを超えた古来の茶の湯の通則ともいえるものを言う。この通則によって生まれるゆえに「公共茶室」なのだと私は考え、それは博士の永い茶室研究の成果と豊かな感性によって成るものである。「公共茶室」が各流派点前はそのままに、茶の心の具象である茶室の通則をもって茶室を構え、各流派の茶の心のありようを、古来の茶の通則をもって糺(ただ)すといった機能を果しつつあると言えよう。”
(註6)各地方公共体から依頼される施設は何れも、「和」の造形を基調とすべき木造建築であった。物づくりを通じて伝統を追究しようとする氏にとって絶好の課題であった。芭蕉山寺紀行300年を記念して企画された「山寺芭蕉記念館」(1989)は、山寺に相対する高台の敷地に建てられた東西に細長い建物である。東端の収蔵・展示棟はRC造であるが、山寺に対する座敷棟から東端までの建物を、高さを抑えながら風光と融合させることは厳しい試練であった。酒田市の出羽遊心館(1994)も長く連結された平面で、ほぼ同じ規模の市民の教養施設であった。広い芝庭と流れを主題にした庭の間に建つ、座敷棟広縁からは鳥海山を望む庭屋一如の境地を形成する。工事は京大工と庄内大工の協同で進められ、京の大工技術の普及にも貢献できた。金沢市の特別名勝兼六園内に建てられた時雨亭(2000)は復元をふまえつつ、公共茶室を兼ねて設計された庭園建築で、広い土間庇があり、その一角に流れが取入れられ、庭屋一如を強調した作例である。これらを含め作例の記録は、「中村昌生の仕事 数寄の空間Ⅰ公共茶室」淡交社刊(2000年)に収められている。一連の実践的研究を通じ、日本の伝統的建築技術を活用し、その継承に貢献する使命感を貫くことが出来たのは、同じ情熱を持ち続けている多くの職人衆の協力が得られたからである。


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