安田暎胤【僧侶(薬師寺長老)】 社会部門

 

受賞年月

平成24年2月

受賞理由

多年、宗教を通じ、世界平和活動に寄与・貢献するとともに、薬師寺伽藍復興に尽力した業績

受賞者の経歴

【職 業】
僧侶(薬師寺長老)
【学 位】
龍谷大学文学士
龍谷大学大学院文学修士
【学 歴】
昭和31(1956)年 奈良県立奈良高等学校卒業
昭和35(1960)年 龍谷大学文学部卒業
昭和37(1962)年 龍谷大学修士課程修了
昭和38〜39年   名古屋大学聴講生
昭和39年      名古屋大学アフガニスタン学術調査隊の一員としてバーミヤンをはじめアフガニスタン及びパキスタンの仏教遺跡を約3ヶ月間調査する
【経 歴】
昭和25(1950)年  5月  法相宗大本山薬師寺に入山し橋本凝胤師の薫陶を受ける
昭和35(1960)年  4月~ 平成21(2009)年8月 薬師寺八幡院住職
昭和42(1967)年  8月~ 平成10(1998)年8月 薬師寺執事長、法相宗宗務長(興福寺と3年交代 数回就任)
平成10(1998)年  8月  薬師寺副住職
平成15(2003)年  8月  薬師寺管主 法相宗管長
平成16(2004)年  6月  薬師寺21世紀まほろば塾設立 同塾塾長
平成21(2009)年  8月  薬師寺長老
【寺外団体の諸活動】
平成  8(1996)年  4月  ㈶世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会 評議員
平成12(2000)年  7月~ 平成18年(2006年)6月 ㈶WCRP日本委員会非武装和解委員長
平成17(2005)年  7月  ㈶WCRP日本委員会理事
平成18(2006)年  4月  ㈶WCRP日本委員会常務理事
平成22(2010)年    ㈶WCRP創設40周年記念事業大会実行委員長

平成16(2004)年  4月~ 平成18(2006)年3月 ㈶全日本仏教会副会長
平成17(2004)年  6月~ ㈶国際佛教興隆協会理事長

平成  7(1995)年  1月~ 平成14(2002)年12月 日中韓国際佛教交流協議会常任理事
平成15(2003)年  1月~ 日中韓国際佛教交流協議会副理事長
【過去における表彰】
平成20(2008)年11月 龍谷大学 龍谷賞受賞
【主要著書】
『佛の道を思う朝』(講談社 1990)
『玄奘三蔵のシルクロード 中国編』(東方出版 1998)
『玄奘三蔵のシルクロード 中央アジア編』(東方出版 1999)
『玄奘三蔵のシルクロード ガンダーラ編』(東方出版 2001)
『玄奘三蔵のシルクロード インド編』(東方出版 2002)
『心の道しるべ』 (講談社 1999)
『この道を行く』(講談社 2003)
『人生の四季を生きる』(主婦と生活社 2003)
『住職がつづる 薬師寺物語』(四季社 2004)
『花のこころ』(講談社 2007)
『まごころを生きる』(大法輪閣 2008)
『五つの心』(主婦と生活社 2008)
編著 : 『古寺巡礼 薬師寺』(淡交社 1980)
『魅惑の仏像 薬師三尊』(毎日新聞社 1986)
『薬師寺』(理文出版 1990)
【共著】
『叡智』(佼成出版社 2004)

受賞者の業績

安田暎胤氏の主な業績は、次のとおりである。

【世界平和活動】
「平和諸活動」
氏は、昭和38(1963)年9月、日本宗教界が宗派を越えた核兵器禁止宗教者平和使節団19名(名誉団長 高階瓏仙 曹洞宗管長、団長 松下正寿 立教大学総長、副団長 橋本凝胤 薬師寺管長、副団長 庭野日敬 立正佼成会会長、氏は最年少)の一員として参加し、バチカン教皇庁を訪ね、パウロ六世と会見、「核兵器の禁止と世界平和の実現」をうたった「平和提唱」を手渡し、協力を求めた。教皇は、共に世界平和の実現に努力することを表明した。このあと、スイスの世界教会協議会、モスクワのロシア正教教会、イギリスのカンタベリー大寺院を訪れ、「平和提唱」を手渡し、核兵器の廃絶に協力を求めた。さらにインドのネルー首相と会見し「平和提唱」を手渡した。
氏は、帰路、一人で戒厳令の布かれている南ベトナムの町を視察し、僧侶等と交流した。サイゴン空港を発った直後にクーデターが起き、ゴジンジェム政権が崩壊した。昭和39(1964)年再度サイゴンやフエを訪問し、革新的な僧侶らとも交流した。
「財団法人 宗教者平和会議(WCRP)」
WCRPは万人の共通の願いである世界恒久平和の実現を求め、世界各国の諸宗教の指導者からなる集まりで、本部はニューヨークにある。昭和45(1970)年に発会を兼ね、第1回の世界大会を京都で開催した。以後ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、中近東など世界各地で5年ごとに世界大会を開き、平成18(2006)年に再び京都で第八回世界大会を開催した。
平素の活動としては、非武装和解、人権、開発・環境、難民など具体的な問題の解決に活動している。
氏は、平成15(2003)年9月に団長として、北東アジア地域の平和、信頼醸成をめざす交流計画を打診するために中国委員会(CCRP)を訪問した。
平成16(2004)年8月にも団長として、イラン南東部バムで起きた大地震被災者への支援活動のモニター、並びにイランの諸宗教者とのコンタクトづくりを目的にイランを訪問した。イスラム教シーア派の聖地コムで、イスラム教神学校の高位指導者と面談した。テヘランではゾロアスター教関係者と交流した。さらにはイマム・ホメイニ著作集出版作成研究所のモハダン博士を訪問し、宗教対話・交流・協力を通しての世界平和に向けた宗教者の役割について意見交換を行った。
平成23(2011)年3月に起きた東日本大震災においても被災地に赴き、義援金を届け被災地の各所で供養をした。
氏はこれらの活動の他、WCRPの日本委員会における評議員、非武装和解委員長、理事、常務理事、創立40周年記念事業実行委員長を歴任し、その中心的役割を担っている。
「公益財団法人 国際佛教興隆協会」
㈶国際佛教興隆協会は、インドのネルー首相が、昭和31(1956)年に「釈尊成道の聖地ブッダガヤに国際佛教社会を建設し、数次の世界戦争を経験してきた人類の末永い国際融和と平和の拠点としよう」との提議に応えて、日本佛教諸宗派ならびに各総本山が超宗派で結成、昭和43(1968)年に財団法人として認可され、昭和48(1973)年に「印度山日本寺」を建立した。それ以前の昭和41(1966)年に、氏の師匠の橋本凝胤師が願主となって釈尊への報恩感謝から大きな石の記念塔(宝篋印塔)を建立した。
印度山日本寺は、仏教寺院としての宗教行為のほか、園児200人余りへの無料保育施設「菩提樹学園」や、毎日500人の患者への無料医療施設「光明施療院」などの福祉事業や、学術文化事業として各国から僧侶・学者・佛教研究者を招き、仏教学研究国際シンポジウムを毎年開催している。現在は第三次事業計画である「仏教学東洋学研究所」の建設に努力している。
氏は、平成17(2004)年から理事長としてその重責を全うしている。
「日中韓国際佛教交流協議会」
中国仏教協会の会長であった趙樸初氏が、北東アジアの安定のために日本・中国・韓国の3国は、「黄金の絆」を結ばねばならないという提唱で、平成6(1994)年に発起人会を設立した。
平成7(1995)年から中国・韓国・日本の輪番制で、毎年1回大会を開催し友好を深めている。その他、禅宗僧侶を中心に修行体験の相互交流をしている。
平成18(2006)年には薬師寺を会場として平和祈願法要を厳修した。
氏は、同協議会の常任理事、副理事長として、中心的役割を担っている。

【薬師寺伽藍復興】
「金堂復興」
氏が入山した昭和25(1950)年頃の薬師寺は、参拝者はほとんど無く堂の扉はいつも閉じられていた。そのため参拝者による現金収入は少なかった。戦前は寺の所有する田畑があり、年貢米が小作人より納められていたが、農地改革で田畑も無く貧しい寺であった。収入も少ないが出費も少なく、住職と6人ほどの弟子だけの質素な生活が続いていた。
氏の師匠の橋本凝胤師は、自分の住職時代に為したかった金堂復興は、戦争のために実現できないと判断し、弟子に夢を託し厳しく指導をした。
昭和42(1967)年、43歳の若さで住職に晋山した高田好胤師は、師匠への恩返しの気持ちを込めて晋山式の会場で、金堂復興の発願を宣言した。しかし薬師寺には末寺や檀家などの特定の組織はない。また薬師寺のような歴史ある寺において新しく建築をする場合には種々の規制があり、復興することは容易ではない。
氏は、高田管主と共に執事長として二人三脚の如く31年間、平成10年に高田管主の遷化後も副住職として5年・管主として6年、延べ42年間、伽藍復興に尽力した。
浄財を募る方法として一般的には、大企業からの大口の寄付を受けることであった。しかし大口の寄進もありがたいが、小口でもより多くの人々による寄進はさらにありがたい。その上に寄進する人にさわやかな喜びを感じていただくことができないかと思った。氏は、現代に生きる人々の“佛心の種蒔き” をしながら復興できないかと考え、1300年前、薬師寺を発願した天武天皇が多くの書き手を集め写経をせしめられた事に習い、“お写経による金堂復興” を高田管主に提案した。
お経を納める際の供養料として、1巻につき1,000円を添えていただく案である。しかし「写経程度で何ができるか」とか「労多くして益少なし」とか「太平洋を裸で横断するようなもの」と実現不可能という意見も受けた。だが高田管主は氏の提案を採択し、「最小の効果のために最大の努力を惜しまない宗教心の大切さ」を訴え、ひたすら写経勧進に全身全霊を奉げた。それが「百万巻写経による 薬師寺金堂復興勧進」であった。結果的には金堂落慶の4ヶ月前に百万巻を超え目標としていた金額の勧進が達成できた。
「西塔復興」
当初は金堂復興のみの発願であったが、西塔の復興には多くの抵抗があった。寺内でも経済的理由での反対、高田管主自身も「金堂は仮堂として450年間も耐えてきたが、これでは世界一の仏像と仰がれる薬師三尊に申し訳がない。そのために薬師三尊に相応しい建物に復興する意義があるが、西塔は今敢て建てる必要性を感じていない。薬師寺は東西両塔がある寺であるが、幸い1基が残っている。どうしても再建しなければならない宗教的情熱が湧かない」と消極的であった。
埋蔵文化財を護る学者からは、「そんなに建てたければ何処か他の地でも建てれば良い」とまでいわれた。さらに世の文化人も、景観保全のために西塔を復興することは猛反対であった。金堂復興も中華料理店のように思われ「薬師寺飯店か」と揶揄もされた。奈良の美は朽ちて滅んでいく姿にある。すなわち「滅びの美」がよいとされていた。そうした多くの反対者があった中で、氏は「千年以上の歴史を持ち、国宝を有する寺の使命は、創建の精神を重んじ、先人の造った素晴らしい文化を保存・継承・修復・復興・それに新しく創造することも必要である。それが生きた寺の歴史である」と力説し強く西塔復興の推進役を勤めた。
中でも風致審議会の許可がなかなか得られにくく、氏は風致審議会に呼ばれ質問攻めにあった。後日、猛反対する委員にさらに会見し、西塔復興の意義や薬師寺の将来ビジョンを述べ許可を求めた。
その結果、氏は委員に「諸手を挙げて賛成する、もっと貴方に早く会っておけば良かった」といわれ許可されるに至った。
池の向こうに春日山を背景とし、金堂を中心に両塔の並び建つ景観は有名となり、日本の空の玄関である成田空港の大壁面を飾ったこともある。西塔の復興が可能となってから、中門・回廊・大講堂・僧坊などの復興がスムーズに進捗できるようになった。反対していた文化人も、「ここまでくれば徹底的に復興するように」と励ます推進者に変貌した。
また、薬師寺の伽藍復興は再建された堂塔とともに、その中に納められたお写経は“昭和平成に生きた人々の千年後の人々に贈る心のメッセージ” でもあると、氏は確信している。
「玄奘三蔵院」
『西遊記』の主人公である玄奘三蔵の頂骨(頭のお骨)が、昭和17(1942)年に南京で駐屯していた日本軍によって発見された。昭和19(1944)年に頂骨の一部を全日本仏教会に分骨された。当初は東京芝の増上寺に奉安されていたが、戦争のため一時疎開として、埼玉県岩槻の天台宗寺院である慈恩寺に遷された。
玄奘三蔵は法相宗の根本教義である唯識学を究めるために、身命を賭してインドまで往き17年後に帰国した。また、玄奘三蔵以前の翻訳を旧訳といい、玄奘三蔵以後の翻訳を新訳と区別されるほど影響を及ぼした。特に唯識教学を所依とする法相宗の寺(薬師寺や興福寺)と玄奘三蔵との縁は特に深い。氏は、ぜひ薬師寺で玄奘三蔵を顕彰すべきだと考え、昭和46(1971)年に慈恩寺を訪問し、住職の大島見道師の賛同を得て、共に全日本仏教会を訪ね薬師寺への分骨を要請した。
諒解を得て薬師寺へ分骨したが、薬師寺境内は歴史的風土保全特別地区に指定されており、元あった建造物の復興は可能だが、新築は許可されない。その難関を建設の意義を宗教的理由で意義付け申請し、許可を得てできたのが現在の玄奘三蔵院伽藍である。頂骨は八角堂の基壇の中に奉安し、基壇上には翻訳している姿の像を安置した。八角堂の後方に壁画殿を建て、その壁面に平山郁夫画伯が玄奘三蔵の歩んだ道を追体験した風景画が描かれ、20世紀最後の日に奉納された。
貧しかった薬師寺が、戦後に大きく様変わりをした。農地改革で譲渡した頃の境内地からは3倍に拡張した。おそらく薬師寺の1300年の歴史の中でも画期的な変化であり、氏はその変化の中心的役割を果たした。

【薬師寺21世紀まほろば塾の設立】
戦後の日本は物質文明の豊かさを求め、高度に経済成長を成し遂げた。しかし、その反面精神的豊かさが等閑になった。高田好胤師は「物で栄えて心で滅ばぬように」と警鐘を鳴らし、松下幸之助氏の依頼で「日本まほろばの会」を設立したが、平成10(1998)年高田好胤師の遷化をもって閉会した。
氏は平成16(2004)年にその精神を継承し、「薬師寺21世紀まほろば塾」を読売新聞社との共催で設立した。
全国各地の都市を中心に大会を開くとともに、奈良をはじめ東京・岐阜・広島・仙台・茨城・静岡などで定期的に開塾している。今日まで4万人を超す受講者があった。


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