明石康【元国連事務総長特別代表】 国際交流部門

受賞年月

平成14年2月

受賞理由

多年、国際連合・平和維持活動を通じて、わが国の国際化に寄与した功績

受賞者の経歴

【学歴】
昭和29(1954)年  3月 東京大学教養学部教養学科アメリカ科卒業
昭和29(1954)年  9月 東京大学大学院で国際関係を研究。同時に国際基督教大学で講師として「政治学」
を担当(~55年)
昭和31(1956)年  9月 フルブライト留学生として渡米、バージニア大学大学院で修士号を取得(~56年)
昭和32(1957)年  9月 フレッチャー法律外交大学院及びコロンビア大学大学院の博士課程で国際問題
を専攻(~57年)
平成10(1998)年  3月 立命館大学から国際関係で博士号を授与
【職歴】
昭和32(1957)年  2月 日本人の国連専門職員第1号として国連事務局の政治安保理局政務担当官となる。
昭和38(1963)年       特別政治問題担当事務次長室
昭和41(1966)年       タイ・カンボジア紛争の調停等を担当(~68年)
昭和49(1974)年         国連日本政府代表部参事官、公使、大使を歴任(~79年)
同 上          国連総会日本代表(第29回から第33回まで)
同 上          国連行財政問題諮問委員会(ACABQ)委員(日本代表)(~79年)
昭和53(1978)年         国連開発計画管理理事会予算委員会委員長
昭和54(1979)年  5月 広報担当国連事務次長
昭和62(1987)年  3月 軍縮担当国連事務次長
平成  4(1992)年  1月 カンボジア国連事務総長特別代表
平成  6(1994)年  1月 旧ユーゴスラビア国連事務総長特別代表
平成  7(1995)年11月 国連事務総長特別顧問
平成  8(1996)年  3月 人道問題担当国連事務次長
平成  9(1997)年12月 国連を退官
平成10(1998)年  4月 広島市立大学広島平和研究所初代所長(~99年2月)
平成10(1998)年  4月 立命館大学大学院、東洋英和女学院大学大学院客員教授(~現在)
平成11(1999)年  7月 日本予防外交センター会長(~現在)
【公職歴】
昭和38(1963)年 コロンビア大学セミナー「現在東アジアと日本」議長
昭和42(1967)年 アジア中堅リーダー開発国際会議議長
昭和55(1980)年 国際平和アカデミー「より良い世界を目指す」財団理事
平成10(1998)年 (財)岡崎嘉平太国際奨学財団評議員、(財)芸術研究振興財団理事、人口問題協議会会長、
日本国際連合学会理事長、日本国連協会顧問、難民を助ける会理事(~現在)
平成11(1999)年 名城大学顧問(~現在)
平成12(2000)年 (財)フォーリンプレスセンター評議員、(財)日本フォスタープラン協会評議員、
日朝国交促進国民協会副会長(~現在)
平成13(2001)年 (財)日本漢字能力検定協会理事、京都文教大学学術顧問、
群馬県立女子大学外国語教育研究所所長(~現在)

受賞者の業績

1954年、氏は東京大学教養学部を卒業後、東京大学大学院で国際関係を研究し、同時に国際基督教大学で講師として「政治学」を担当した。 翌年には、フルブライト留学生として、アメリカのバージニア大学大学院に留学し、同大学にて修士号をを修得する。その後、フレッチャー大学国際関係大学院に学ぶ。
1956年、時あたかも、イスラエル、イギリス、フランス3カ国によるエジプト侵攻とソ連によるハンガリー動乱の鎮圧があり、国連では初めての緊急特別総会が招集されていた。同年12月、日本が国連加盟を実現した時期に国連を見学した氏は、その縁で白羽の矢を立てられ1957年、日本人初の国連事務局職員となる。
特に氏の国連における最初の仕事は、ハンガリー事件に関する事務総長報告書の作成であった。この作業が、共産国ソ連と、マルクス主義に対する認識を改める機械になったという。その後、日本人ということもあり各国から近親感をもたれていた氏は、国連組合委員長にも選出され、多様で複雑な立場であった国際公務員制度と国際平和について、より深い理解を深めていく。また、1962年のキューバ危機、マレーシア連邦の独立、1966年からのタイとカンボジアの抗争、アメリカのベトナム介入とソ連のチェコ介入など、氏の手腕が確実に発揮されていく。
1969年に提案された国連大学構想は、紆余曲折を経て1972年に設置の承認を得る。大学本部を日本に置くことにつき、わが国の官民あげての支持も高かった。日本政府は、1997年、氏を国連大学学長候補に推薦している。このように、その活動歴と日本の国際化は軌を一にしているともいえ、象徴的である。
1974年、外務省に中途入省し、国連日本政府代表部に配属される。本省依存型では、主導権は取れない。氏は、日本型チームワークの効率性を尊重しながらも、現地の裁量も重視し、参事官、公使、大使と歴任し、5年の後、国連に戻ることになる。
1979年、ワルトハイム事務総長の支持もあり、国連事務次長(広報担当)に就任した氏は、以後18年間にわたって事務次長として国連の重責を担うこととなる。千人を超える個性豊かな職員の把握や、先進国と途上国との利害に阻まれるなど、多事多難な日々であった。とりわけ、超大国・アメリカは国連に強く対峙する傾向があった。
1987年、軍縮担当の国連事務次長に就任する。ソ連では2年前に政権を握り、軍縮の機運が見え始めていた。第3回軍縮特別総会の開催(88年)、ソ連のチェルノブイリ原発への訪問(90年)など、氏の”平和の配当”の実現への努力は続いてゆく。
氏が、日本の一般国民に広く知られる人となった契機は、1992年1月のカンボジア問題国連事務総長特別代表の就任であった。国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)は、国連始まって依頼の、最も大規模かつ複雑で、リスクの大きい活動であった。ガリ国連事務総長の全面的な信頼の下、氏の手腕への熱い期待が取り巻いていた。複雑に利害が交錯するカンボジア内外の情勢の中で、公正で早期の総選挙を実現させることが期待されていた。しかも、ポル・ポト派は予想を超える硬直した態度を示していた。この時期、日本でも、1992年、国連平和維持活動(PKO)協力法が成立し、国際貢献への関心は急速に高まっていく。日本からも、選挙監視団として国連ボランティアが数多く参加したが、民間の中田厚仁さんや警察官である高田晴行氏が殺害されるなど、非常に緊迫した状況であった。この間、ポト派からは氏への暗殺予告もあった。しかし、内外の動揺に屈せずカンボジアの民主主義の第1歩を実現するため、あくまで公正な選挙を実施しようとする、氏の不屈の精神と行動は、カンボジア国民に平和への勇気と確信を賦与し、15万人以上のNGOへの参加も得て1993年5月、選挙が実施される。氏は、微妙な国内の政治バランスを調整し、同年6月に暫定国民政府を実現する。カンボジア国民の氏への感謝の気持ちは、シアヌーク国王の「不可能な任務を立派に果たした」とうUNTACへの評価に表れている。同年9月、任務を完了し1年半を過ごしたカンボジアを離れる際に、「カンボジア国民の生きる喜び」を述べ、「平和のために戦ったという記憶は、私の心の中に永久に残ると思います。カンボジア国王、万歳。」と万感胸に迫るスピーチをしている。
1994年正月3日、氏は、緊張するボスニアに旧ユーゴスラビア国連事務総長特別代表としてクロアチアに着く。ボスニアのサラエボは冬季オリンピックの面影を無残に壊していた。多様な民族の亀裂を前に、国連PKOの活動もかなり制限されていた。国連の平和維持活動は、国連憲章第6条に基づく、紛争当事者の同意を前提としているからである。中立的な国連は、民族や宗教間の憎悪や政治的思惑からの我田引水的な期待には応えられない。その上、NATO(北大西洋条約機構)との関係が難しい。NATOは、「安全地域」に対する攻撃抑止のための協力を安保理決議で規定されているが、それは「二重のキー(鍵)」ともいわれていた。力による解決を望む人々は、NATOの空爆への期待を強く主張したが、氏は、NATOの空爆をギリギリまで回避する。しかし、殺害を逃れようとする難民は増加し、加えて国連保護軍兵士の拘束など、国連PKOは危機を迎えていた。やがて、NATOによるボスニアへの本格的空爆も行われ、力による軍事的解決と政治的・外交的解決の相克が激化する。そして、1995年11月、国連事務総長特別代表の任を終え、クロアチアの本部を後にする。この激烈な内戦は、国連の平和維持活動の限界を超えていることを示していた。
1997年末、氏は国連を退官する。1998年、旧知の平山郁夫画伯や広島市長の要請を受け、広島平和研究所の初代所長に就任する。祈っていれば平和が到来するという観念的な平和論ではなく、具体的な方法論に基づいた、骨太な日本発の平和理論を構築したいと考えたからである。そして、現在も日本において、多くの大学での教鞭と各種団体に関与しながら、グローバル化を迫られる”ふるさと日本”の課題に真摯に立ち向かっている。
和を尊んできたわが国が、より異質の文化に接触し、同時に自国のアイデンティティーを自覚し、更にそれにふさわしい自己改革を達成するために、氏への国内外の期待は今後も益々大きい。

授賞理由

氏は、1954年東京大学を卒業後、フルブライト留学生としてアメリカの大学で学び、その縁で、1957年日本人初の国連事務局職員となる。
そして、国連において、東西冷戦の最中にあって、ハンガリー動乱を始め複雑な国際情勢のなかの国連の役割を体得していく。それは、1966年からのタイ・カンボジア抗争、アメリカのベトナム戦争、ソ連のチェコ介入など、世界が注視した出来事であった。そうした中、国連大学構想の実現や、国連日本政府代表部の参事官・公使・大使、国連事務次長就任(1979年~広報担当、1987年~軍縮担当)など、氏の手腕が着実に展開され、国際社会において評価されていく。
特に日本が人的国際貢献として、初めての犠牲を出した1992年のカンボジアでの国連平和維持活動において、国連事務総長特別代表として、国際社会において大きく評価されることとなる。緊張が走るカンボジア内外の情勢の最中に、不動の信念と姿勢を保った氏の「明石は、日本の古武士のようだ」という伝聞は、日本人に平和の為の勇気と大きな誇りを与えている。
氏のその後の国際的貢献は言及するまでもないが、日本人として国際社会に勇躍した軌跡は爽快であり、氏の期待は今後も益々大きい。


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