アカデミアの夢

創刊号巻頭言「アカデミアの夢」1947年(昭和22年)2月11日発行

新村 出

今宵はクリスマス。新約の使徒行傳の第二章の或る節に、なんぢら老人は夢を見るべし、といふ神の語がある。少くも、こよひはわたくしら老人は、自分たちにふさはしい夢をみようと思ふ。

今度京都で創刊するアカデミアと題する新雜誌を祝福するため、一つ夢物語を書いてみたい。夢だけでなく、現つになってほしいことは、萬人みな同感であらうが、名があまり勝ちすぎはしないか。私は本誌が名實ともなひ、文質ひんぴん厥美を濟すやうにありたいと、祈るばかりである。

一八六九年の秋からロンドンで創刊されたアカデミアという雜誌は、學藝評論の雜誌として著名であつて月刊から半月刊となり週刊となり再び月刊にもどつたやうな經過をたどつてをるが、同誌ぐらゐまでに、今度の此の雜誌が發展し得るや否や、徐ろに育成してゆかねばならぬ。マシウ・アーノルド、ヰリアム・モリス、ダ・ガロセツチ等をはじめ、ハックスレーやテインダルの如き科學者も同誌に名文を寄稿したやうな聲譽をあげてゐる。京都のアカデミアも、何卒かういふ程度まで進めてもらひ、私の望蜀の希望をいへば、更に世界的名聲を博するやうにありたいものである。これが老人の夢に終らぬやうにとのみ念願してゐる。

元來、アカデミアとは、今から二千數百年前に、アテンの西北郊外に、英傑アカデモスなる者が所有してゐたといふ傅説があつて、そのあとに古賢プラトンが學院を開いて、前住者の名に因んでそれをアカデメイアと呼んだのに起る。そこには、學塾と共に幽林を附属せしめ、林間に在つて師弟が哲理を講習したといはれる。

翰林とも、學林とも、藝林とも、又檀林とも稱するにふさはしい。日本でいふなら、傅教大師の比叡山、弘法大師の高野山また高雄あたりがそれに該當するといひたい。印度や中國に求めるなら例はたくさん存するであらう。翰林といふ文字も、その眞義においては、正にアカデミアの本旨にかなふかと思はれる。アカデミアは、アテンの西北に存したといふから、京都でいふなら、嵯峨あたりにあたるわけであつて、例へば弘仁帝の棲霞觀とかそれを承けた大覺寺など、夢窓國師の天龍寺や臨川寺などが、私の連想に上つてくる。東南の山科醍醐や木幡宇治も當らないではない。
吉利支丹の傅道初期にあたつて、フランシスコ・シヤビエル聖人は、比叡山や三井寺、さては高野などの諸大寺院をさして、アカデミアと稱したが、それらの教院をさう呼んだのは、面白いと思ふ。規模を小にして近世初期における本阿彌光悦の鷹峰壇林の如きものをも、私は一つの小アカデミアと名づけてもよいのではないかと折々想ふことがある。

ともかくも、上古のアテンの都の西北アカデミアなるものが、學藝の苑林であつて、それから近世初期このかたの四五百年においてアカデミイなるものが發展し來たつた。譯しては翰林院とか學士院とかよばれるに至つた其の歴史は、こゝに一々詳記する暇はない。初めは、哲學、文藝、美術、言語、それから考古歴史に及び、法制にも渉り、漸次に理學に進んで來たやうな經路をたどつたところの跡は、こゝに細叙すべくもないが、十六世紀のイタリアには、フイレンツエにおけるアカデミア・デルラ・クルスカ(もみがら學院)、十七世紀のフランスでは、アカデミイ・フランセーズ、やゝ後れてのイギリスのローヤル・アカデミイ、それやこれやのアカデミイの創建と沿革とは、歐洲學藝史の英華を物語る。とりわけ佛國の翰林院は、東京學士會院の模範ともなり、本邦の學士院史にも、遙かに感化を及ぼしてゐるのである。それもクルスカやフランスの如く、文語から出發してをる。

これらの光彩ある過去を回顧するとき、かゝる由緒深遠なるアカデミアの名を冠らせて誕生した所の理想と抱負は、その實現と經營に於て尋常一様であつてはならないことは、自明である。徒らに美名に負けて、その實を擧げるに足るべき用意と努力を怠つてはならないことは、申すまでもない。希くは、老人の夢をして夢に終らしめて戴かぬやうに。

(帝國學士院會員、文博)


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