受賞年月
平成23年2月
受賞理由
多年、芸術(日本画)と教育を通じて広く国内外の芸術文化の振興に寄与した功績
受賞者の経歴
【学歴】
昭和32年(1957) 京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)日本画科卒業
昭和34年(1959) 同専攻科修了
【職歴】
昭和36年(1961) 京都市立美術大学助手
昭和59年(1984) 京都市立芸術大学教授
平成 9年(1997) 京都市立芸術大学美術学部長
平成11年(1999) 京都市立芸術大学を定年退官、名誉教授・副学長就任
平成14年(2002) 日本芸術院会員
平成16年(2004) 京都市立芸術大学副学長を退任
平成17年(2005) 京都市立学校歴史博物館館長に就任
同 (社)創画会理事長に就任
【画歴】
昭和31年(1956) 新制作協会日本画部春季展 初入選(以後連続入選)
同 新制作協会第20回展 初入選(以後連続入選)
昭和34年(1959) 「上村淳・隈部琴子日本画2人展」(京都府ギャラリー)
昭和35年(1960) 「浜田昇児・上村淳・三輪晃久3人展」(大阪・中宮画廊)
昭和37年(1962) 「上村淳個展」(大阪・関西画廊)
同 「京都画壇の3代展」(京都市美術館)
昭和40年(1965) 「木下章・上村淳・門脇寿日本画3人展」(京都府ギャラリー)
昭和41年(1966) 京都府日本画総合展「熱国月明」京都府買上
昭和43年(1968) 新制作協会第32回展 新作家賞受賞
同 新制作協会会友となる
昭和44年(1969) 「上村淳個展」(銀座・孔雀画廊)
同 「上村淳・下田義寛日本画2人展」(銀座松坂屋)
昭和45年(1970) 「上村淳作品展」(銀座・彩壺堂)
同 「上村淳日本画展」(大阪松坂屋)
昭和46年(1971) 「上村淳個展 鳥の四季による」(日本橋髙島屋)
昭和47年(1972) 「上村淳個展 鳥の歳時記」(銀座・祇園画廊)
昭和49年(1974) 「上村淳之作品展」(銀座・彩壺堂サロン)
昭和50年(1975) イタリア・フィレンツェにてサン・マルコ寺院壁画実寸模写(約40日)
同 「上村淳之日本画展」(京都髙島屋)
昭和54年(1979) 創画会出品「晨Ⅰ・Ⅱ」文化庁買上
同 「上村淳之展:四季の鳥」(銀座一哉堂画廊)
同 「上村淳之作品展」(京都朝日画廊)
昭和56年(1981) 「 京都の現代日本画7人展」(京都市美術館主催)
同 「上村淳之展」(京都府文化芸術会館にて 京都府・京都府文化事業団主催)
同 創画会会員となる
昭和57年(1982) 「上村淳之・四季展・鳥に寄せて」(銀座・北辰画廊)
昭和59年(1984) 「上村淳之 鳥に詩う」(日本橋髙島屋)
昭和60年(1985) 第1回京都画壇日本画秀作展に選出され出品(以後連続出品)
同 「上村淳之花鳥画自選展」(大阪・大丸心斎橋店)
同 「鳥に描く・上村淳之展」(京都髙島屋)
平成 元年(1989) 「現代日本画の俊英 上村淳之展」(銀座・松屋にて日本経済新聞社主催)
同 「美の流れ三代・上村松園・松篁・淳之展」(日本橋・髙島屋にて 読売新聞社主催)
平成 4年(1992) 「四季の譜・鳥に遊ぶ ─ 上村淳之展」(新宿伊勢丹にて 読売新聞社主催)
同 上村松園、松篁、淳之の作品を収蔵する財団法人松伯美術館が認可
平成 5年(1993) 「奈良ゆかりの現代作家展─柳原義達・井上武吉・上村淳之・絹谷幸二の世界─」(奈良県立美術館主催)
同 「風・花・鳥/上村松篁・淳之展」(パリ三越エトワールにて 朝日新聞社主催)
平成 6年(1994) 「鳥と語る 上村淳之展」(京都髙島屋)
平成 8年(1996) 「上村松園・松篁・淳之展」(鹿児島市立美術館・近鉄百貨店京都店・高岡市美術館・京都大丸)
平成10年(1998) 「上村淳之教授退官記念展」(京都市立芸術大学・京都市四条ギャラリー)
平成11年(1999) 「松伯美術館 開館5周年記念/花鳥画の心/上村淳之展」(大阪・近鉄阿倍野店)
平成13年(2001) 「風花雪月 上村淳之展」(髙島屋劈頭展、京都・東京・大阪・岐阜・名古屋各店)
同 「松園・松篁・淳之 上村三代展」(新潟伊勢丹)
平成15年(2003) 「古希記念 上村淳之展」(大阪・東京・伊予鉄・京都髙島屋各店)
平成16年(2004) 「鳥たちに魅せられて 上村淳之日本画展」(日本橋・福岡・名古屋三越・京都大丸各店)
【受章・受賞】
平成 4年(1992) 京都府文化賞功労賞
平成 7年(1995) 日本芸術院賞
平成11年(1999) 京都市文化功労賞
平成17年(2005) 紺綬褒章
【著書】
昭和58年(1983) 「上村淳之画集」(講談社)
平成 4年(1992) 「日本画の行方」(美術年鑑社)
平成 9年(1997) 「鳥たちに魅せられて」(中央公論美術出版)
受賞者の業績
氏は、昭和8年に画家・上村松篁(日本画家)の長男として京都市に生まれ、祖母は上村松園(日本画家)である。
京都画檀の総帥の家系に育まれ、昭和28年(1953年)には、京都市立美術大学日本画科に進学し、同年には奈良県の禽荘に住み鳥の飼育を始めている。そして在学中にも新制作協会第20回展に「水」を出品、初入選を果たす。また、卒業制作の「鴨A」「鴨B」は美大作品展第一席となり、学校買い上げとなっている。
昭和34年には美術大学(現京都市立芸術大学)専攻科を修了し、この年第6回朝日新人展に「沼」を招待出品する。同年には初個展を開催し、花鳥画を描く日本を代表する日本画家としての地盤を築いている。
昭和36年(1961年)、京都市美術大学助手となり、芸術家と同時に教育者としてのスタートを切る。その間、昭和41年・京都府日本画綜合展に「熱国月明」を出品、京都府買い上げとなり、昭和43年にも新制作協会第32回展に「火鶏」等を出品、新作家賞を受賞、新制作協会会友となっている。
昭和47年(1972年)京都市立芸術大学助教授を拝命。この年から画号「淳之」を用いる。
氏の、その後の芸術家としての活躍と日本画教育・芸術教育の領域での活躍は目覚しく、昭和53年(1978年)第5回創画展への「晨1」「晨2」(双幅)の出品と創画会賞受賞・文化庁買い上げ、昭和55年(1980年)第7回創画展への「雁(月明)」「雁(雪中)」の出品と創画賞の受賞、翌年には上村淳之展が京都府立文化芸術会館で開催され、創画会会員となっている。
昭和59年(1984年)京都市立芸術大学教授を拝命され、この年から京都画檀日本画秀作展に連続出品をしている。
平成4年(1992年)には東京新宿・伊勢丹にて「上村淳之―四季の譜・鳥に遊ぶー」が開催され、同年には京都府文化功労賞を受賞している。また翌年にはフランス・パリの三越エトワールにて上村松篁、淳之自選展が開催され、日本語の独自の世界を欧州に広めている。
平成6年(1994年)上村家三代の作品を所蔵、展覧する松柏美術館を開館、館長となり、翌年には第51回日本芸術院賞を受賞する。(対象作品「雁金」)そして、平成9年(1997年)には「画業三代の精華上村松園・松篁・淳之展」が開催され、日本画家・京都画檀の金字塔と評価される。
平成11年(1999年)には、京都市立芸術大学副学長に就任(2004年まで)し、平成14年(2002年)には日本芸術院会員となっている。
以上のように、氏の歩んできた日本画と美術・芸術の道は、多くの芸術を志す者からは正に輝かしいばかりの足跡である。
しかし、一方で、氏は、「余白に託す」日本画の心とその真髄について、今日の危機感を隠さない。
日本画は、決して順風漫歩の時代を経てきてはいないのである、と。とりわけ、明治以降の美術(絵画)の学校教育は、近代化・欧化主義の下で極端な西洋画(写実主義)偏重となり、また戦前の西欧排外主義(国粋主義)の下での極端な日本画偏重に伴う画檀の弛緩と堕落を経て、更に戦後の西欧型民主主義教育の中での更なる西欧画(写実)一辺倒の学校美術教育を厳しく見つめている。
一方で氏は、本来の文化・芸術は、ある意味において異文化との激しい衝突の中で初めて認識され、そして相互の発展がもたらされるものであり、逆に文化の一方的評価を指弾する。日本人のもつ豊かな感性と文化もそうした中において初めて評価され、日本人自身もそれに改めて気づくものであると言われる。「淳之」氏自身の生活の文字通り数え切れない鳥たちとの共生の中から生まれる「人間と自然との共生」(人間の考え方、鳥の生き方)の視点。日本画とは何か、西欧画とは何か、その目線の違いこそが文化の奥行きであると言われる。
氏は、平成17年より、上村松園の母校・開智小学校跡に出来た学校歴史博物館の館長に就任し、氏の発案で館長室にて保護者・参観者を対象に「日本画とは、西欧画とは」を主題にした小さな講演会を行ってきた。保護者・一般参観者の「日本画と西欧画、日本人の感性と自然との共生」への関心は極めて高く、小さな会場は常に満杯である。現在では、各地美術館等の各展覧会のギャラリートークとして、その講演依頼は年に10回を超えるという。
また、文化庁の主催する文化ボランテイアにおいて、年6回小中高校生を対象に「絵とは何か」という講演も行っている。学校現場では、演題を「日本画とは何か」と出来ない現実があるという。生徒も教師も多くが、西欧画教育(写実教育)以外を知らないのである。そうした中、氏は彼らに、「日本画とは、胸中に夢想しそれを再現することであること、何か(対象物)を書く(写実)ことではなく、その己の感性と思想や情念を正に描くことである」と、今も説き続けている。
授 賞 理 由
氏は、上村松園・松篁と三代に亘る著名画家一家に生まれ、そうした中で花鳥画という独自の世界を築き上げ、今や日本を代表する日本画家として、京都画檀・日本画壇を牽引している。その作品の品性の高さと芸術性の深さは言うまでもない。
一方で氏は、文化・芸術を担う教育者として、京都市立芸術大学にて長年に亘り子弟の指導にあたり、とりわけ日本独自の日本画の世界の継承を促してきた。
今日、国際情勢も混沌としている中、文明の衝突か・文化の共生かが大きく問われている。氏は、新時代における芸術は、異文化との激しい切磋琢磨の中にあって、あらゆる創意工夫と様々な知識、そして能力・感性・努力の中で生まれると言われる。それは本来の芸術性とは、庶民の生活の中にある大きなヒントと、そこから生まれたものである、という示唆からも伺える。
よって、氏の芸術ならびに教育の真髄である「自然観、人間観、感性・思想の表現」を訴え続けた活動は、多くの人々に共鳴され深い示唆を与え続けており、世界の広範な人々への心の糧としての貢献は顕著である。