木津川 計【雑誌『上方芸能』発行人】 文化・社会部門

 

受賞年月

平成25年2月

受賞理由

多年、上方芸能及び上方文化の普及と振興をはじめとする数々の功績

受賞者の経歴

【現  職】
兵庫県川西市生涯学習短期大学学長
雑誌『上方芸能』発行人
【学   歴
昭和34(1959)年4月 大阪市立大学文学部入学
昭和39(1964)年3月 大阪市立大学文学部卒業
【経   歴】
昭和39(1964)年 4月 あゆみ印刷工芸社(家業)入社
昭和43(1968)年 4月 雑誌『上方芸能』創刊、編集長
昭和43(1968)年 5月 あゆみ印刷工芸社代表
昭和57(1982)年 4月 日本福祉大学経済学部非常勤講師
昭和59(1984)年 4月 神戸大学文学部非常勤講師
昭和60(1985)年12月 あゆみ印刷工芸社退社
昭和61(1986)年 4月 立命館大学産業社会学部教授
(以降、大阪市立大学、大阪音楽大学大学院の非常勤講師を兼任)
平成 6(1994)年 4月 兵庫県川西市生涯学習短期大学学長(現在まで)
平成11(1999)年 4月 雑誌『上方芸能』代表
平成18(2006)年 3月 立命館大学産業社会学部定年退職
平成19(2007)年 4月 和歌山大学経済学部客員教授
平成20(2008)年 4月 和歌山大学観光学部客員教授
平成20(2008)年 6月 雑誌『上方芸能』発行人(現在まで)
平成24(2012)年 3月 和歌山大学観光学部退職
【審査員歴】
大阪文化祭賞審査員
上方お笑い大賞(読売テレビ)審査員
芸術選奨文部科学大臣賞選考委員会主査(文科省)
民間放送連盟賞中央審査委員会委員長(2004 ~ 05年エンターテイメント部門)
他、各種コンテスト、文学賞などの審査員を歴任
【現在の活動】
NHKラジオ「ラジオエッセイ」(関西エリア)を昭和56(1981)年10月から週1回レギュラーで担当して今年で32年目。
「木津川計の一人語り劇場」を平成19(2007)年4月に旗揚げ。新国劇や新派、歌舞伎や映画の名作を口演している。
【受 賞 歴】
京都市芸術功労賞(1998年)
京都新聞文化賞(1998年)
第46回 菊池寛賞(1998年)
【著  書】
 《単  著》
『文化の街へ』(1981年 大月書店)
『編集長のボロ鞄』(1983年 日本機関紙出版センター)
『上方の笑い』(1984年 講談社現代新書)
『含羞都市へ』(1986年 神戸新聞出版センター)
『生活文化の視座』(1988年 日本生活協同組合)
『大阪の曲がり角』(1989年 東方出版)
『いつか麒麟に出会う日よ』(1991年 かもがわ出版)
『可哀相なお父さんに捧げる哀歌』(1991年 法律文化社)
『花曜日の薔薇色』(1992年 『上方芸能』編集部)
『人間と文化』(1992年 岩波書店)
『〈趣味〉の社会学』(1995年 日本経済新聞社)
『生き甲斐のゆくえ』(1997年 かもがわ出版)
『優しさとしての文化』(2002年 かもがわ出版)
『上方芸能と文化』(2006年 NHKライブラリー)
『都市格と文化』(2008年 自治体研究社)
『朗読・語り文化の地平』(2011年 『上方芸能』出版センター)
『ことばの身づくろい』(2012年 『上方芸能』出版センター)
《分担執筆》
『日本芸能史・第7巻』(1985年 法政大学出版局)
『日本音楽大辞典』(1989年 平凡社)
『大衆文化辞典』(1991年 弘文堂)
『新修大阪市史・第9巻』(1995年 大阪市)
《共  著》
『文化中心社会の条件』(1994年 労働旬報社)
『文化の変容と再生』(1996年 法律文化社)
『定年後』(1999年 岩波書店) 他多数

受賞者の業績

氏の業績は、次のとおりである。
(1)雑誌『上方芸能』の業績
大阪は出版文化の育ちにくい都市である。雑誌文化も貧弱で、評価に耐える雑誌は今や『上方芸能』しかないのではないかといわれるくらい雑誌の少ない都市である。
そんな大阪にあって季刊『上方芸能』は1968年4月、木津川計氏によって創刊された。B5版7頁の出発だった。
当初は「上方落語をきく会」の会報として発行されたが、35号から「きく会」と切り離し、『上方芸能』編集部を発行母体とすることで、雑誌名にふさわしい芸能総合誌への道を歩むことになった。
上方の伝統芸能は60年代高度経済成長期に難しい局面に陥った。上方歌舞伎も文楽も観客減に見舞われ、その存続が危ぶまれた時代である。
木津川計氏は経済重視のあおりを受け、伝統芸能が見捨てられようとする風潮にストップをかけねばと、『上方芸能』の旗印を「伝統芸能の発展のために」とし、そのために今日まで私財を投じて尽力してこられた。
苦境に喘いだ伝統芸能だったが、芸能内外の努力により上方歌舞伎も文楽も、困難の中で立直りを見せるようになった。その復権を見据え、『上方芸能』は旗印を101号(1989年7月)から「芸能文化の広がる都市に」に転換させた。
100号まで続いた伝統芸能を守り、“名優” を育てる市民的努力の時代から“名観客” を育てる時代に移っているという認識からだった。
創刊以来、2013年2月時点で満44年10 ヶ月、187号を数えた。その功績が称えられ、1998年、第46回菊池寛賞が与えられた。授賞理由は、①伝統芸能の継承発展に尽力、②後継者の養成に尽力 の二点であった。
(2)『上方芸能』の事業
“名観客” を増やそうという試みは、次表に見るような展開を早くから続けた。
①上方落語をきく会(1968年~ 1980年 大阪・北御堂ホール 112回 45,000人)
②第1次上方芸能ゼミナール(1969年 大阪・府立商工会館他 6回 900人)
③第2次上方芸能ゼミナール(1978年~ 81年 大阪・阪急ファイブ 36回 5,400人)
④上方芸能ライブ講座<人間国宝がやって来る> (1988年 京都・池坊学園こころホール 12回 3,600人)
⑤特選芸能ライブ講座<芸術祭賞がやって来た> (2000年 京都・池坊学園こころホール 12回 3,600人)
⑥日本の講談(1972年、73年、98年 大阪・高島屋ホール ワッハ上方 3回 1,200人)
⑦語り芸花舞台(2001年~ 兵庫県立文化芸術センター 12回 8,400人)
⑧精選春の語り芸(2006年~ 心斎橋大丸劇場 7回  2,000人)
名優は名観客によって育てられる。そんな考えのもとに続けられてきたこの表に見る観賞講座や公演は、多くの名観客を生み出すに寄与した。
また『上方芸能』編集部が推進する取組みの中に既に5回を数える「関西朗読コンテスト」がある。美しい日本語の読みと語りを広げようと、年々参加者を増やし、実績を上げつつあるところだ。
こうした事業の中心にあって木津川計氏はよく指導性を発揮され、成果を重ねてこられた。
(3)木津川計氏と京都のかかわり
1991年から3年間、京都市で「芸術祭典・京」の事業が展開された。この事業の起こりについて当時京都市文化課長だった奥山脩二氏が『京都の文化と市政』(京都市文化政策史研究会編著)で次のように述べている。
「この考え方というのは、現在、和歌山大学観光学部客員教授であり、雑誌『上方芸能』の発行人(当時編集長)・木津川計先生の都市の文化についての考え方に、都市の文化は「市民の草の根文化」、それと「芸術家による優れた一輪文化」、その二つがあって草の根文化が一輪文化を支え、一輪文化が草の根文化を刺激するという形で、相互作用しながら都市の文化は発展していく、というものがありまして、この考え方を基本に、私は「芸術祭典・京」を組み立てました。実はこの芸術祭典の前に、西宮市とその他近松門左衛門所縁の町が集まった催しが行われ、そこで木津川先生の講演を聴き共感して、芸術祭典を行う時はこの考えを基本に据えようと考えたのです。」
この「芸術祭典・京」で木津川計氏は市民文化部門の実行委員長として尽力。この事業の終了後も京都市の文化行政に氏の考えが生かされたことが評価され、1998年、京都市芸術功労賞が与えられたのである。
なお、同年の京都新聞文化賞は、『上方芸能』発行30年の功績が評価され、与えられたものである。


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