受賞年月
平成14年2月
受賞理由
多年、映画を通じて、文化の振興と国際文化
交流に尽くした功績
受賞者の経歴
【学歴】
昭和26年 3月 日本女子大学社会福祉学科卒業
昭和33年11月 パリ高等映画学院(IDHEC)監督科に入学
昭和36年 6月 同上 卒
【職歴】
昭和27年 7月 東宝(株)制作本部文芸部入社(昭和33年4月まで)
昭和37年 3月 監督助手、放送作家、演出家として活躍
昭和43年 2月 岩波ホール総支配人(現在まで)
昭和49年 2月 エキプ・ド・シネマ主宰
【公職職】
《文化庁関係》
昭和55年 4月 東京国立近代美術館フィルムセンター運営委員(平成9年3月まで)
平成 元年 4月 文化庁優秀映画作品賞選考委員(平成4年3月まで)
平成 2年 4月 文化庁芸術選奨(映画部門)選考委員(平成5年3月まで)
平成 6年 2月 文化庁「映画芸術の振興に関する調査協力研究者会議」座長代理(平成6年8月まで)
平成 7年12月 日本ユネスコ国内委員(平成13年11月まで)
平成 8年 7月 文化庁「マルチメディア映像・音響芸術懇談会」委員(平成9年6月まで)
平成 9年 4月 東京国立近代美術館評議員(平成13年2月まで)
平成 9年 9月 東京国立近代美術館フィルムセンター初代名誉館長(現在まで)
《文化庁関係以外》
昭和59年11月 NHK中央放送番組審議委員(平成2年10月まで)
昭和60年 1月 国際交流基金運営審議委員(平成8年12月まで)
平成 2年 4月 放送番組向上協議会委員(平成8年6月まで)
平成 2年 5月 日中友好21世紀委員(総理大臣諮問機関 現在まで)
平成 5年10月 国際文化交流に関する懇談会委員(総理大臣諮問機関 平成6年6月まで)
平成 5年10月 ハイビジョン番組審議委員(平成13年3月まで)
平成 5年12月 厚生省高齢社会福祉ビジョン懇談会委員(平成6年3月まで)
平成 9年 4月 全国安心安全まちづくり女性フォーラム発起人(建設省関係・平成12年3月まで)
平成12年 7月 日本インドネシア・アドバイザー・ネットワーク アドバイザー(外務省、現在まで)
《都道府県関係歴》
昭和59年 3月 富山県イメージディレクター(現在まで)
平成 6年10月 群馬県民200万人記念映画製作委員(現在まで)
平成 7年12月 富山県黒部市国際文化センター「世界の名画を見る会」企画責任者(現在まで)
平成12年 1月 富山県映像センター運営委員会顧問(現在まで)
《その他の団体歴》
昭和43年 6月 (社)日本ポルトガル協会常任理事(現在まで)
昭和55年 4月 日本女子大学評議員(現在まで)
昭和57年 6月 (財)川喜多記念映画文化財団評議員(現在まで)
昭和60年 5月 東京国際映画祭実行委員(現在まで)
昭和60年 5月 東京国際女性映画祭ジェネラルプロデューサー(現在まで)
平成 元年 5月 ハイビジョン国際映像祭日本委員会副委員長(現在まで)
平成 元年11月 (財)大和銀行アジア・オセアニア財団評議員(現在まで)
平成 2年 6月 (社)日中協会評議員(現在まで)
平成 3年10月 日本アイスランド協会理事(現在まで)
平成 6年 5月 藤本賞選考委員(現在まで)
平成 6年 6月 (財)国際文化交流推進協会評議員(現在まで)
平成 6年12月 (財)地域創造顧問(現在まで)
平成 7年 6月 (社)日本外交協会理事(現在まで)
平成 7年12月 NHKアジア・フィルム・フェスティバル アドバイザー(現在まで)
平成 7年12月 (財)東京オペラシティ文化財団評議員(現在まで)
平成 8年 6月 あいち国際女性映画祭顧問(現在まで)
平成 8年 8月 (財)放送文化基金評議員(現在まで)
平成 9年10月 神戸100年映画祭顧問(現在まで、平成8年は実行委員長)
平成10年 4月 (財)大同生命国際文化基金評議員(現在まで)
平成10年 4月 資生堂学園理事(現在まで)
平成10年 4月 (社)小さな親切運動顧問(現在まで)
平成10年 6月 (社)衛星放送協会理事(現在まで)
平成11年 8月 (財)放送番組センター放送番組収集諮問委員(現在まで)
平成12年 2月 ゆうばり国際ファンタスティック映画祭顧問(現在まで)
【受章・受賞】
昭和46年 ポルトガル・エンリッケ航海王子勲章ダーメ章
昭和49年 日本映画テレビプロデューサー協会特別賞
昭和53年 イタリア・アカデミア・ティべリナ永久会員
昭和55年 第22回ブルーリボン特別賞
昭和56年 第29回菊池寛賞
平成 元年 芸術選奨文部大臣・評論部門
平成 元年 外務大臣表彰
平成 2年 フランス・芸術文化勲章
平成 5年 国際交流基金国際交流奨励賞
平成 5年 ポーランド・功労勲章コマンダリー章
平成 6年 1994エイボン女性年度賞女性大賞
平成 6年 第18回山路ふみ子賞文化賞
平成 8年 第12回東京都文化賞
平成12年 第18回川喜多賞
平成12年 ハイビジョン・アウォード2000郵政大臣賞
平成13年 フランス・国家功労章シュヴァリエ
平成13年 キューバ友好メダル
平成13年 勲三等瑞宝章
(以上抜粋)
受賞者の業績
<映画との出会い>
1949年、氏は、大学において、「マス・メディアとしての日本映画」を研究テーマとした。爾来、調査・分析の10年、監督修行の4年を含め、映画作りの10年、そして岩波ホールという興行側に34年と、氏の映画人生50余年が綴られる。
<映画会社への就職>
1953年、大学を卒業後、大手映画会社の東宝株式会社に入社する。新設された制作企画調査のセクションであった。当時の映画界の女性主人公は、男性にとって必要な女性としての、結婚の対象か母親役の2通りしかなく、一方、男性側は10代から60代までいづれもバラエティにとんだ魅力的な主人公であった。男性主体の映画界にあって、女性の描き方に納得できない氏は、率直な意見を出すが映画界にそれを受け容れる環境はなかった。助監督への道も閉ざされた氏は、6年後、一躍、フランスへ映画監督としての留学の途につく。
<フランスの イデックに留学>
1958年、難関であったパリの高等映画学院(イデック)に入学する。身を削るほどのフランス語の習得や、女性の監督科入学がたった一人であったことなど、厳しい状況にあったが、卒業論文「日本に於ける無声映画時代の芸術映画発達史」は衣笠貞之助監督の指導を得て、主任教授ジョルジョ・サドウール氏に認められ、1961年第16回生として監督科を優秀な成績で卒業する。フランスでは、氏にとっての映画は,観る側の大衆娯楽から作る側の大衆芸術へと変化し、パリで高く評価されていた日本映画への再発見も刺激的だったという。
<岩波ホールの誕生>
1962年、帰国後にテレビドラマ「パリに死す」の脚本・演出を実現させ、続く連続ドラマのスタートの矢先、不慮の自動車事故に遭う。その後、一念発起して作ろうとした映画も、著作権の侵害などに会い、失意に陥る。その間、岩波ホールの完成があり、その運営を委託されることになる。これが、映像作家から劇場支配人への転機となったのである。
1968年、劇場支配人に転身したのであったが、3ヶ月後に岩波ホールの危機の噂に見舞われる。それは、全国7000館以上の男性支配人の中で「唯一女性支配人」への危惧であった。しかし、それが、女性パイオニアとしての劇場支配人の道に奮起せしめることとなる。質よりも量、利益優先の男性型経営に対し、オーナー岩波雄二郎氏の質を尊重した考え方は、貴重であった。氏は、平均年齢20歳の若いたった4人のスタッフを率い、また友人知人の協力の下、岩波ホール機関誌「友Iwanami Hall」を媒体としながら、国内外の質の高い「映画講座」「音楽サークル」「古典芸能シリーズ」「学術講座」という4つの企画を展開していく。
第1回の映画企画「講座・戦後日本映画史」は、毎月2本、4年間の上映というものだった。当時は、日本映画の凋落が見えてきた時期でもあり、劇場経営の不安もささやかれた。しかし、この企画は成功し、やがて日本映画シリーズのほかに、ドイツ・イギリス・イタリア。ポーランド・フランス・ソビェトなどの映画史研究、そして「水俣」「佐久間ダム」などのドキュメンタリー映画の上映、在日外国人のための英語字幕つき日本の名作映画上映、日本初のキューバ映画祭や韓国映画祭へと展開し、年初6年間に長短750本の映画上映をしていく。これが後の、岩波ホールを根拠地として、世界の埋もれた名画を世に紹介する運動体の名称である「エキプ・ド・シネマ(映画の仲間)」へと発展していくのである。
音楽演奏については、フランス音楽の企画を手始めに、バロック音楽、イタリア歌曲、英国古典、ジャズ講座等を開催し好評を得た。古典芸能も、「講座・伝統芸能と現代」のシリーズを始め、能、狂言、歌舞伎舞踊、義太夫、平曲、津軽三味線等、諸講座を展開した。この催しは、後に、「岩波ホール演劇シリーズ」への誕生へとつながる。
学術講座としては、現代美術講座・現代写真講座、夏休みの夏期学習講座として日本文学史、日本史などを開講し,延べ1万4千人の人々の参加を得ている。
<エキプ・ド・シネマ>
1974年に始まったこの名画上映運動は、事情通の人々によって、すぐ挫折するだろうと予測されていた。経済的な問題と、名作の持続的収集の困難も危惧されていた。エキプ運動推進は、第3世界の名作や大手興業会社不採用の名画、日本映画の名作を世に出す手伝いをすることを目標としていた。しかし、多くの危惧にもかかわらず、インド映画「大樹のうた」を皮切りにエキプ運動は、会員の支えによって前進を続け、岩波ホールは、他の映画館と違う「冒険を実現させる劇場」としての地位を確保していく。これは、「よいものは、必ずわかってもらえる」という、興業の世界を創造の場とするという氏の信念の成果である。そして、1980年まで岩波ホールは事情通の大方の予想を裏切り、常に満員という時代を綴る。やがて、全国の映画館が1700館まで減り、一方、ミニシアターが次々と生まれ、岩波ホールはミニシアターの生みの親と評価される。そして氏の弛まぬ努力は現在も続けられ、中国・韓国映画の発掘と大ヒット等、アジア・欧州・世界各国の映画監督たちの評価は常に高い。
<広がるエキプ運動、女性の社会進出と『がんばりま賞』『つづけま賞』>
エキプ運動(名画上映運動)は、現在も広がっている。バルブがはじけ経済不況が続く昨今、逆に、観客は物事をまじめに深く考えるようになってきている。岩波ホールの観客も増え、さらに、エキプ運動も拡大している。エキプ作品の全国配給体制も出来てきたという。氏は、一方で、各国の名画保存運動にも取り組み、1997年には国立フイルムセンターの初代名誉館長に就任し、現在も日本映画遺産の収集、保存に携わっている。
また、氏は、1985年に発足した国際女性映画祭のプロデュースに示されるように、映画界における女性監督、プロデューサーの育成をはかり、成果を上げている。
氏は、多くの受賞に際し、自ら「これは『がんばりま賞』『つづけま賞』という意味。」といい、また、「この仕事の、持続することの難しさ。」を説き、そして「持続には、創造の精神が必要」といって、初心の大切さを強調する。
このように、氏の50有余年の映画人生の軌跡は、1970年以後、衰退を続ける日本映画界の中にあって、日本国民に勇気を与えるのみならず、映画を通じての国際交流にも貢献した。最近では高齢化社会を肯定的に見つめる作品の数々を上映、成功を収め、未来に向かって歩み続けている。
授賞理由
氏は、戦後の大衆文化の華であった映画に、昭和26年以来従事し、その隆盛とその後の苦難の時代にあって、一貫して、映画の知的情報媒体としての本質的な芸術性に着目し、それを追求し、普及し、その発展に貢献してきた。
従来、映画は、観る側の大衆娯楽として位置づけられていた。また、我が国の男性優位な風潮や、書物を上位とする一般知識人の映画に対する偏見もあった。そうした中、フランスに留学し、映画の芸術性に確信を得た氏は、欧州に興ったアカデミズム(学問・芸術における伝統)の精神を、我が国において映画館から体現し、諸々の文化運動や、営利優先でない映画の質の提供や、「エキプ・ド・シネマ」に象徴される普及活動を展開し、やがてその活動は、映画界に一筋の光明を与えるのである。
氏は、女性の社会進出の先駆者として後進の育成に務める傍ら、文化庁をはじめ多くの団体の公職を務めている。更に、日本と世界の良質な映画の普及やその保存活動をはじめ多くの諸活動を通じて、文化の振興と国際文化交流にも貢献している。
なによりも、映画を通じて日本国民に勇気を与えた氏のアカデミアの活動は高く評価される。