星野一正【京都大学名誉教授】 社会部門

 

受賞年月

平成13年1月

受賞理由

多年、我が国の医学とりわけ生命倫理の研究と発展に寄与した功績

受賞者の経歴

【学歴】
昭和24年  3月 東京医学専門学校医学科(現東京医科歯科大学)卒業
昭和24年  4月 慶應義塾大学通信大学法学部入学
昭和25年  8月 医師免許取得
昭和26年11月 慶應義塾大学通信大学法学部退学(文部教官助手就任のため)
昭和32年  1月 東京医科歯科大学医学博士号取得
【職歴】
昭和26年12月 東京医科歯科大学産婦人科教室助手
昭和32年  8月 米国ニューヨーク州セント・クレア病院産婦人科レジデント主任
昭和34年  7月 米国イェール大学医学部解剖学教室助手
昭和37年  7月 カナダ・西オンタリオ大学医学部解剖学教室講師
昭和39年  7月   同  助教授
昭和41年  7月   同  準教授
昭和46年  2月   同  教授
昭和46年  7月 カナダ・マニトバ大学医学部教授
昭和51年  7月 旧西ドイツ・フライブルグ大学医学部客員教授併任
昭和52年  2月 京都大学医学部教授/カナダ・マニトバ大学と併任
昭和53年  4月 京都大学医学部附属先天異常標本解析センター長
昭和55年  4月 京都大学医用高分子研究センター協議員
昭和60年  2月 京都大学医学部医の倫理委員会初代委員長
平成  2年  3月 京都大学退職
平成  2年  4月 京都女子大学国際バイオエシックス研究センター教授 センター長
平成12年  4月 イメリタスクラブA会員・研究室開設(現在に至る)
《公職歴》
昭和33年   ニューヨーク科学アカデミー会員
昭和34年  7月 米国科学振興学会会員
昭和36年  3月 米国解剖学会会員
昭和39年  7月 米国癌研究学会会員
昭和50年  9月 国際細胞学アカデミー会員
昭和52年11月 日本解剖学会評議員
昭和55年  3月 日本尊厳死協会会員・評議員
昭和59年11月 第5回国際プロラクチン会議会長
昭和59年12月 日本学術会議解剖学研究連絡委員会委員
昭和63年  4月 日本生命倫理委員会創設委員会企画委員長
昭和63年12月 「大学医学部医科大学倫理委員会連絡懇談会」設立初代委員長
平成 元年  1月 カナダ・バイオエシックス学会会員
平成  3年10月 日本生命倫理学会代表理事・会長(平成8年まで)
平成  4年   国際バイオエシックス学会 Institutional Member
平成  7年  5月 生と死を考える会顧問
平成  8年10月 (財)聖ルカ・ライフ・サイエンス研究所評議員
平成10年10月 大学医学部医科大学倫理委員会連絡懇談会名誉世話人
平成11年  6月 (社)全国日本学士会評議員
平成12年  4月 (財)国際高等研究所招聘学者・IIAS Fellow
平成12年  4月 イメリタスクラブA会員
【賞罪】
平成 元年11月 文化賞受賞〈京都新聞社〉
平成  5年  9月 American and Japanese Medical Award of Merit(日米医学功労賞)〈米国死生学財団〉
平成11年  9月 International Man of the Year 1998-1999 in Medicine and Bioethics(医学・生命倫理学の分野 1998-1999年度 国際的 時の人)〈英国ケンブリッジ International Biographical Centre〉

受賞者の業績

氏は、1927年東京赤坂に生まれ、昭和24年に卒業以来、母校の東京医科歯科大学の産婦人科で臨床と研究の研鑽後、昭和32年に医学博士号を取得した。
氏は、同年(1957年)渡米し、New Yorkの病院で産婦人科のChief residentを、2年目には病理residentも兼任した。当時日本人医師には、旧敵国条項で開業医試験受験資格が剥奪されていた。そのため、氏は、10年間の日米における臨床活動を断念して、米国のNew Havenのイェール大学医学部助手として人体解剖や発生学の教育と生殖内分泌・組織発生・発癌などの研究に従事した。その後、米国生活は5年でVisaが切れたため、イェール大学医学部講師を辞し、カナダの永住居住権を取得し、1962年にカナダ国立癌研究所研究員となり、西オンタリオ大学医学部の癌研究所並びに解剖学の講師として赴任し、カナダに移住した。爾来、日本に帰国することもなく、15年間、カナダで教育・研究を続け、助教授・准教授を経て、1971年に教授に昇格した後、カナダのマニトバ大学に、医学部教授・歯学部教授として、また癌細胞の核内DNA量の微量定量による癌の悪性度並びに患者の予後の推定の研究をカナダで初めて推進するための細胞生物学研究部長として赴任した。尚、1976年には癌研究者として、西ドイツのフライブルグ大学医学部Ludwig Aschoff病理学研究所に客員教授として招かれ、マニトバ大学から有給休暇を取ってフライブルグ大学に赴任して、大学院の指導をも行っている。
氏は、20年余りの欧米生活の後、昭和52年(1977年)秋に、日本に呼び戻され、京都大学医学部教授として赴任した。
まもなく、氏は、日本解剖学解剖委員会委員として、正常解剖学の解剖実習のために必要な献体委員として活動を始め、3年目にはその委員長として献体の法制化運動を計画する。当時、日本では、献体数が少なく、氏はこれを憂慮し、国会議事堂内で文部大臣に献体した個人への「文部大臣感謝状」授与の直訴や、議員立法の働き掛けなどを通じて献体法制化運動に没頭し、ついに1983年に法制化を成功させ、今日の献体の充足に寄与した。
また、氏は、京都大学医学部に倫理委員会を創り、退官まで5年間初代委員長を務めている。
一方、氏は、日本帰国後、国立がんセンタ―中央病院の「肺癌研究班」にも所属し、9年間ヒト肺癌のDNA解析による悪性度並びに患者の予後の判定の研究を担当している。ライフワークの一つであるプララクチン(乳汁分泌ホルモン)に関しては、1988年に「第5回国際プロラクチン会議」を東洋で初めて日本に招致して、その会長を務めた。
帰国後、氏は、北米の医療センターで勤務中に米国で生まれ体系づけられた新しい生命倫理学(バイオエシックス bioethics;患者中心の医療の倫理)を我が国へ紹介し普及に努力した。氏の努力により、日本生命倫理学会は1988年に創立され発会した。バイオ(生命)とエシックス(倫理)をつないだ造語である生命倫理という言葉は、日本の医療社会では概念的に確立されておらず、一言で言えば「患者中心の医療の倫理」であり、従来の患者への「知らしむべからず、依らしむべし。」という医師の独善的立場にメスをいれるものであった。氏は、この生命倫理(患者中心の医療の倫理)の概念を日本に普及と定着をさせるため、財団法人国際科学振興財団の支援による星野企画の国際バイオエシックス・シンポジウム・シリーズ(1990年1月の第1回を始めとし、1993年12月の第8回まで)の継続的開催、1990年5月に第1回「日本生命倫理学会国際シンポジウム」を、同年11月に第2回、そして1991年1月に第4回の計3回、企画委員長として開催、また1994年9月には「日米バイオエシックス会議」を会長として東京で主催するなど、精力的にその活動を展開してきた。1991年には会員の互選により「日本生命倫理学会」の初代会長に選出され、以来、5年間その会長を務めている。その他、1991年には、「京都女子大学国際バイオエシックス研究センター創始記念国際バイオエシックス・シンポジウム」を開催し、1998年9月に開催した「「第20回大学医学部医科大学倫理委員会連絡懇談会記念国際シンポジウム」を含め、8年8ヵ月間に合計14回の星野企画のバイオエシックス関連の国際会議を開催し、日本へ諸外国のバイオエシックスの紹介をしている。
氏の活動として社会的にも顕著な例として、平成3年(1991年)におきた「東海大学付属病院事件」があげられよう。これは、医師が、昏睡状態の終末期男性患者に無希釈の塩化カリウムを静脈内注射して死亡させ殺人罪で起訴された事件である。氏は、担当検事の要請に基づき、数回にわたり裁判所に出向き、「世界の尊厳死・安楽死・慈悲殺などの法制化運動並びにインフォームド・コンセントを含む新しい生命倫理学(バイオエシックス)の発祥の歴史的背景、法的な意義並びにそれらの現状」について説明した。その後、本裁判における検事側証人として2日間法廷において証言を行った。我が国における尊厳死・安楽死・慈悲殺の概念的議論は、この事件を契機に始まったと言えよう。そしてこの議論は未だ緒についたところであり、これが「患者中心の医療の倫理=バイオエシックス」という流れの中で、欧米流個人主義に対し、東洋において「個人を尊重する」(患者の人格権としての自己決定権)という概念の社会的コンセンサスを如何に確立するのかという命題は極めて奥の深い論議が求められており、21世紀の医学界、医療界、また法曹界や市民生活にも現実的な影響を与えるものであろう。その意味においても、氏の研究及び啓蒙活動は困難でかつ深淵なものである。
氏は、1990年に京都大学を停年退官した後も、生命倫理学の研究・教育・啓蒙活動に休むことなく専念し、京都大学名誉教授、京都女子大学・宗教文化研究所教授・国際バイオエシックス研究センター・ディレクター、アメリカ内分泌学会名誉会員、アメリカ解剖学会名誉会員、New York Academy of Science会員、日本生命倫理学会初代会長・現理事、全国日本学士会評議員、日本医学教育学会名誉会員、日本解剖学会名誉会員、大学医学部医科大学倫理委員会連絡懇談会名誉世話人、日本唾液腺学会名誉会員、日本尊厳死協会理事等として、広く国内及び国際的にその研究活動を展開している。
氏の社会的評価は、平成元年11月の文化賞(京都新聞社)受賞、平成5年9月の米国死生学財団よりのNew Yorkでの「日米医学功労賞」の受賞、また、英国ケンブリッジのInternational Biographical Centreが選考した「医学・生命学倫理の分野:1998-1999年度国際的時の人」に現れている。
その他、氏は、Philosophy and Medicine P&M Series(Kluwer Academic)、Cambridge Quarterly of  Healthcare Ethics(Cambridge Univ. Press)をはじめ、種々の外国誌や国内誌の編集委員を努めている。
氏は、2000年3月で、京都女子大学を定年退職し、現在、国際高等研究所の招聘学者・フェローとして研究に従事するとともに、京都パストゥール研究所の5階にある「イメリタスクラブ」という名誉教授の研究施設にオフィスをもち、バイオエシックス普及のための草の根運動に力を入れ、論文や本の執筆、講演活動並びに一般公開のバイオエシックス・ゼミで市民と共に意見の交換を行っている。

氏の主要著書を、下記に列記する。
【医学関係】
「臨床に役立つ生体の観察」「Moore 人体発生学」「臨床と解剖セミナー全10巻」「カラーアトラス新生児に見られる外表奇形」(医歯薬出版)
「イラスト人体発生学」(医学書院)
“Prolactin Gene Family and Its Receptors –Molecular Biology to Clinical Problems”(オランダ・Excerpta Medica)
【生命倫理関係】
「医療の倫理」(岩波新書)
「生命倫理と医療-すこやかな生とやすらかな死」「インフォームド・コンセント-日本に馴染む六つの提言」(丸善)
「21世紀への生命倫理と医療経済」「脳死と臓器移植」「胎児の生命と尊厳」「人の死をめぐる生命倫理」「倫理委員会のあり方」「環境と生命倫理」「エイズと生命倫理」(蒼穹社)
「死の尊厳-日米の生命倫理」「生の尊厳-日米欧の医療倫理」(思文閣)
「わたしの生命はだれのもの-安楽死と尊厳死と慈悲殺と」(大蔵省印刷局)
“Japanese and Western Bioethics, Studiesin Moral Diversity”(オランダ・Kluwer Academic Publishers)
「ニューズレター」 年に4回・計35回/号外・1回(京都女子大学バイオエシックス研究センター)

授賞理由

氏は、医療における生と死の問題、とりわけ終末医療のあり方や、尊厳死をはじめとする死のとらえ方を、我が国の医学界や医療界に真摯に提案し、問題を提起してきた。氏の提唱した「生命倫理・バイオエシックス=患者中心の医療の倫理」の考え方は、医師と患者の関係、医療と法律の問題、医療の情報公開、など様々な面で現在も大きな社会的関心を呼んでおり、また、国民的論議を必要とする深遠な課題である。
氏は、このような課題を一貫して真摯に医学・医療界及び社会に問いかけ、その社会的コンセンサスを国民と共有するための努力を惜しまず、その活動を継続してきた。医療の民主化とは、医療を受ける側の自己責任の問題でもある。その壁は厚く、課題も大きいが、氏の地道な業績が21世紀のより良い「“生”の質・“死”のあり方」を築くことになる。

 


ページ上部へ