受賞年月
平成22年2月
受賞理由
多年、ユネスコ活動に寄与すると共に、教育文化の振興発展に貢献した業績
受賞者の経歴
【学歴】
京都大学大学院博士課程修了
フランス政府給費留学生として、ソルボンヌ大学博士課程留学
【経歴】
1973年 UNESCO(国連教育科学文化機関)パリ本部勤務。 この間、広報部次長、主席広報官、文化担当特別事業部長等を歴任、その間に「科学と文化の対話」シンポジウム・シリーズ、シルクロード・対話の道総合調査等を発足させる。
1 994年 帰国、ユネスコ事務局長顧問、麗澤大学及び同大学院教授、日本学術会議〈文明誌〉構築特別委員会委員、帝塚山学院大学・国際理解研究所客員教授、日仏教育学会会長、国際比較文明学会(ISCSC)副会長等を務める。
現在 麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授、日本比較文明学会名誉理事、日本クストーソサエティ理事、世界ユネスコクラブ協会連盟(WFUCA)名誉会長、 筑波大学大学院IFERIアドバイザー、地球システム・倫理学会副会長
1 995年 フランス共和国より学術教育功労章オフィシエ位(Officier deL’ Ordre des Palmes Academiques)を授与される。
2 003年9月 ユネスコ事務局長官房 特別参与
2 004年4月 道徳科学研究センター研究主幹・教授
【主要著書】
『文明の交差路で考える』(講談社現代新書)
『出会いの風景─世界の中の日本文化』(麗澤大学出版会)
“Letters from the Silk Roads”(University Press of America)
『文明間の対話』(麗澤大学出版会)
『文明は虹の大河』(麗澤大学出版会)
【共著】
“L’ Homme, la Science et la Nature”(Edition de Mail, Paris)
『世界成人教育史』(講談社)
『ユネスコで世界を読む』(日本ユネスコ協会連盟)
『「対話」の文化─言語・宗教・文明─』(藤原書店)
『文明の風土を問う』(麗澤大学出版会)
“Deep Encounters”(University Press of America)
【訳書】
『ガブリエル・マルセル“道程−いかなる目覚めへの”』(理想社)
【監修】
『科学と文化の対話─知の収斂』(麗澤大学出版会)
『文化の多様性と通底の価値』(麗澤大学出版会)
『地球との和解』(麗澤大学出版会)
受賞者の業績
氏は、パリ・国連教育科学文化機関(ユネスコ)本部にて、主席広報官、次いで特別文化事業部長として在勤中、諸民族の文化遺産が人類の共有遺産であるとの意識の涵養に努め、「世界遺産」の哲学の普及に貢献すると共に、985年「シルクロード・対話の道総合調査計画」(88年より5年計画)を企画実行した。
そのプロジェクトの冒頭に氏が記した「シルクロードは、陸の道、海の道を問わず、何よりも〈文明間の対話〉の道であった」という一言が、0ヶ国、000人の学者を結集することとなった。オマーン国王の協力を得て、同調査計画の「海の道」を実行中、湾岸戦争が勃発、ついでサミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」論を発表、宗教は戦うとの虚像を作りだすにおよび、シルクロード計画の主要参加国であったイランのハタミ大統領は、その思想に対抗するため、このユネスコ・プロジェクトのキーワードを国連総会に提出、00 年が「文明間の対話・国際年」に指定された。それにより、一日本人の創意によるこの言葉は世界語となり、以来、人類の平和と共生を考える基本概念となって定着した。
また氏は、同時に、現代文明の危機の根幹が、科学と文化の乖離にあるとの確信に至り、ユネスコの名のもとに学際的な世界の頭脳を結集、986年を初めとする「科学と文化の対話」シンポジウム・シリーズを発足させた。
第1回のヴェニス・シンポジウムは「最先端の科学は、その独自の道の上で、人類古来の伝統と対話出来る階段に達した」との「ヴェニス宣言」を採択、世界的な反響を呼んだ。且つTransdisciplinaryの語を初めて国連機関の公式文書に明記したことにより、この言葉が学界の使用言語となった。ユネスコの前身である知的協力委員会の精神を現代に蘇らせたこの国際的知的活動は、989年バンクーバー、99 年ブラジルのペレンと引き継がれ、同年開かれたリオ・デジャネイロでの地球環境会議と直結するものとなっていく。
この一連の知的活動の総括として、ユネスコ創立50周年記念事業として開かれたのは、995年、東京・国連大学でのシンポジウム「科学と文化;未来への共通の道」であったが、そこから発信された「東京からのメッセージ」は、「個は全に、全は個に遍照する」と、量子物理学の存在論と大乗仏教の曼陀羅の思想の相関を指摘したのみならず、基調講演者ジャック・イヴ・クストーの行った「生物多様性の法則は文化にも当てはまる」との証言は、00 年ユネスコ総会が満場一致で採択した「文化の多様性に関する世界宣言」となって結実した。それはさらに005年、「文化の多様性に関する国際条約」となり、アメリカのユネスコ復帰に繋がった。
あくまでも文化の多様性を尊重しつつ、その底に人類の共生を可能にする共通の価値を探る試みがなされねばならぬ、との思いが、005年パリ・ユネスコ本部でのシンポジウム「文化の多様性と通底の価値」(ユネスコ創立60周年記念事業)となる。「聖俗の拮抗を廻る東西の対話」という副題の示す難題にも関わらず、そこに見られた「知の収斂」が、007年の東京・国連大学でのシンポジウム;「文化多様性の新しい賭け-対話を通して通底の価値を探る」で更に深められた。従来の「普遍」の理念に代わるものとして諸文化が互敬の立場に立つ「通底」の概念が浮上することとなる。
994年のユネスコ退官時、マイヨール事務局長は、氏に顧問としての残留を依頼、次期事務局長に就任した松浦晃一郎氏によっても特別参与に任命された。退官後、事務局長の顧問をつとめたのは歴代日本人職員で唯一のケースである。上記の一連の国際フォーラムの内、995年、005年、007年のシンポジウムはユネスコ事務局長顧問(特別参与)の一環として氏が主導したものである。
「文明は生き物のように移動する。点と点を結ぶ線上にその生命が流れる。異文化は相互に呼吸し合い、出会い、子を孕む。新しい生命がうまれ、一定の期間、一定の地に花を咲かせる」(『文明は虹の大河』より)というその文明観は、京都大学では西谷啓治教授、パリ大学(ソルボンヌ)ではポール・リクール教授に師事した氏が、ユネスコ勤務中、00ヶ国以上を訪れ、その風土・歴史・遺産に触れ、且つそれらの地の知性と協働しつつ到達した結論であり、現地調査と実践に基づいた認識である。氏はこの文明観に立って、「戦争の文化」に対する「対話の文化」を提唱した。また単なる「共生」にあらずして「共成」、文明の差異を超えた「通底の価値」の探求を呼び掛けている。鶴見和子氏は、このように述べている。
「服部先生は、ユネスコという国際的、学際的萃点において、導師として、対話をどのように進めるか、そこにはどのような困難があるか、異なるものの問の対立、格闘から「通底」へのプロセスを、実践的、具体的に初めて明示してくださった」(『「対話」の文化』)
フランス共和国より、995年、Officier de l’ Ordre des Palmes Academiques(学術功労章・オフィシエ位)に叙される。
研究その他特記事項
本来実存主義の研究から出発した氏は、この哲学に内包する「孤独」から脱却する「根源的共存在」(CO-ESSE)としての人間存在論をガブリエル・マルセルの思想に見出し、カトリック研究に至る。京都大学大学院では特に西谷啓治教授、フランス政府給費留学生としてパリ大学文学部(Sorbonne)博士課程に留学中はPaul Ricoeur教授に師事、Gabriel Marcelその人とも親交を持った。マルセルの意志で、その遺言的著書『道程-いかなる目覚めへの?』(En Chemin vers quel Eveil?)を解説付きで翻訳出版(理想社)した。
国連教育科学文化機関(UNESCO)には国際公務員として97 ~994年の年間勤務、広報部次長、主席広報官、特別文化事業部長、文化担当特別補佐官等を歴任、ユネスコ理念の普及に努めた。特にのち「世界遺産」となる「人類の共有遺産」、「文明間の対話」、「平和の文化」の概念の樹立に貢献した。
「自分の足で歩き、自分の目で見、自分の頭で考える」という京大人文科学研究所の基本的研究方法に共鳴し、桑原武夫・梅棹忠夫氏等とも親交を持った。自らの足で世界の00 ヶ国以上を訪れ、その風土・文化遺産・人に触れたことが、哲学の背景である文明の理解をもたらした。
また新渡戸稲造の遺志を継ぎ、ユネスコの核心はその前身である知的協力委員会の思想にある、との確信から、「科学と文化の対話」シンポジウム・シリーズを立ち上げ、ユネスコの方向性に大きな影響を与えた。995年、ユネスコ創立50周年記念事業として東京、国連大学で開催したシンポジウム「科学と文化;未来への共通の道」は、当時の日本ユネスコ国内委員会会長、京大学長、西島安則教授と構想を練ったものである。
他方では、文化を知らしめることが平和構築の基礎であるとの思いから、ユネスコ加盟国の文化を紹介する文化祭を数多く開催、中でも日本文化祭は976年、99 年の2回パリで大々的に開かれ、その成功が、後に「日本におけるフランス年、フランスにおける日本年」等、以後ほぼ毎年各国が日本と相互に行う国家間文化事業の範例となった。
また政府間機関にあって草の根運動である民間ユネスコ運動の重要性を認識、その世界的ネットワークを形成すべく、974年にはアジア・ユネスコクラブ連盟、98 年には世界ユネスコクラブ・協会連盟設立の原動力となった。近年は松浦事務局長に意を受け、その再構築に関わった。
985年、中国上空にて、人類文明形成の大動脈であるシルクロードの国際調査計画に着想、「シルクロード・対話の道総合調査」(Integral Study of Silk Roads; Roads of Dialogue)のプログラム名のもとに、988年よりユネスコの公式事業として発足させた。その原案の冒頭に書きこんだ「シルクロードは、陸の道、海の道を問わず、何よりも〈文明間の対話の道〉であった」という一言が、賛同を呼び、0ヶ国、000人の学者参加・研究者の参加する6年ついで0年計画の大事業に発展して行った。その研究を責任者として遂行中、「文明史の歪み」を痛感、帰国後出版した『文明の交差路で考える』(講談社現代新書)で告発、この論説は数多くの大学入試試験に取り上げられるものとなった。同書はアメリカでも英語版が“Letters from the Silk Roads”(University Press of America)の名で出版されている。またエッセイ集『出会いの風景』も009年、“Deep Encounters” のタイトルで同社から、出版された。
現在世界平和を考える時不可欠であるイスラーム理解に関しては、00 年来、外務省の主催する「日本・イスラーム文明間対話」に、日本学界代表の一員として、過去5回参加している。
近代特に取り組んでいる課題としては、「文明間に通底する価値」の探求がある。