受賞年月
平成26年2月
受賞理由
森と海の大国日本が世界に発信すべき21世紀型統合学問「森里海連環学」の提唱と、その理念のもとに進める有明海再生ならびに三陸の海の震災復興に関する業績。
受賞者の経歴
【主な職業】
京都大学名誉教授、公益財団法人 国際高等研究所 チーフリサーチフェロー
【学 歴】
1966(昭和41)年 3月 京都大学農学部水産学科卒業
1968(昭和43)年 3月 京都大学大学院農学研究科水産学専攻修士課程修了
1971(昭和46)年 3月 京都大学大学院農学研究科水産学専攻博士課程修了
【学位・称号】
農学博士
【経 歴】
1974(昭和49)年 5月~1982(昭和57)年 6月 水産庁西海区水産研究所研究員
1982(昭和57)年 7月~1994(平成 5)年 3月 京都大学農学部水産学科助教授
1994(平成 5)年 4月~2007(平成19)年 3月 京都大学大学院農学研究科教授
2003(平成15)年 4月~2007(平成19)年 3月 京都大学フィールド科学教育研究センター長
2007(平成19)年 8月~2010(平成22)年 7月 マレーシアサバ大学ボルネオ海洋研究所/持続農学部客員教授
2008(平成20)年 4月~(現在) NPO法人ものづくり生命文明機構理事
2009(平成21)年 6月~(現在) NPO法人森は海の恋人理事
2009(平成21)年 8月~2011(平成23)年 3月 財団法人国際高等研究所フェロー
2010(平成22)年10月~(現在) 文部科学省海洋生物委員会主査
2011(平成23)年 4月~(現在) 公益財団法人国際高等研究所チーフリサーチフェロー
2011(平成23)年 4月~(現在) 文部科学省東北マリンサイエンス拠点形成事業主査
2011(平成23)年 5月~(現在) 気仙沼舞根湾調査グループ代表
2012(平成24)年 3月~(現在) 放送大学京都学習センター客員教授
2012(平成24)年 4月~(現在) マザーレイク21計画学術フォーラム委員
2013(平成25)年 3月~(現在) NPO法人SPERA森里海・時代を拓く理事
2013(平成25)年10月~(現在) NPO法人アースウオッチジャパン・サイエンスアドバイザー
【表 彰】
1989(平成元)年 日本水産学会奨励賞「沿岸性魚類の初期生活史に関する研究」
2001(平成13)年 NOAA/UJNR日米共同ヒラメ放流実験貢献賞
2006(平成18)年 日本水産学会功績賞「海産魚類の仔稚魚期の生態と生理に関する一連の研究」
2011(平成23)年 サントリー地域文化賞「NPO法人森は海の恋人活動」(団体受賞)
2013(平成25)年 日本水産工学会特別賞「気仙沼・舞根湾における養殖業・沿岸漁業復興のための生物環境調査」(団体受賞)
【主な著書】
『マダイの資源培養技術』(共編)(恒星社厚生閣、1986)
『魚類の初期発育』(編集)(恒星社厚生閣、1991)
『魚類の初期減耗研究』(共編)(恒星社厚生閣、1994)
『ヒラメの生物学と資源培養』(共編)(恒星社厚生閣、1997)
『魚類学(下)改訂版』(共著)(恒星社厚生閣、1998)
『スズキと生物多様性-水産資源生物学の新展開』(共編)(恒星社厚生閣、2002)
『森と里と海のつながり-京大フィールド研の挑戦』(分担執筆)(枻出版社、2004)
『有明海生態系-大陸沿岸から分家した河口生態系』(海洋と生物、29(1)、2007)
『森里海連環学への道』(旬報社、2008)
『森川海のつながりと河口・沿岸域の生物生産』(共編)(恒星社厚生閣、2008)
『稚魚学-多様な生理生態を探る』(共編)(生物研究社、2008)
『稚魚-生残と変態の生理生態学』(共著)(京都大学学術出版会、2009)
『干潟に生きる生き物たち-有明海の豊かさと危機』(分担執筆)(東海大学出版会、2009)
『水産の21世紀-海から拓く食料自給』(共編)(京都大学学術出版会、2010)
『森里海連環学ことはじめ1~6』(科学、80(7)~(12)、2010.)
『山が有明海の稚魚を育む-森里海連環学から流域と海の再生を考える』(科学、81(5)、2011)
『森里海連環学-森から海までの統合管理を目指して』(分担執筆)(京都大学学術出版会、2011)
『森里海連環を復興から新生への柱に』(Biophilia、速報版、2011)
『森と海をむすぶ川-沿岸域再生のために』(分担執筆)(京都大学学術出版会、2012)
『「森は海の恋人」思想を復興の基本理念に』(SEEDer、6、2012)
『気仙沼舞根湾調査の目的と課題』(津波の海に生きる未来創生-気仙沼舞根湾調査)(海洋と生物、34(6),2012)
『森は海の恋人/森里海連環学と復興~気仙沼舞根湾から世界へ~』(ACADEMIA、135,2012)
『津波の海と共に生きる-森里海連環学は時代を拓くか』(ACADEMIA、139,2013)
『森里海連環から東日本大震災の今を見る』(ACADEMIA、141,2013)
『舞根森里海研究所に未来を託す』(津波の海に生きる未来創生 II-その後の気仙沼舞湾調査)(海洋と生物、35(6)、2013)
『森里海のつながりによる有明海再生の道-心に森を育む』(監修)(花乱社、2014)
『防災と復興の新たな知へ-3.11以後を生きる』(分担執筆)(京都大学学術出版会、2014年)
『Will CoHHO Studies Herald a New Age? : Issues and Expectations』In「Connectivity of Forests, Humans and Oceans (CoHHO):Challenge to Improvement of Watershed and Coastal Environments」(eds by N.Shimizu et al.) (Kyoto University Press, 2014)
受賞者の業績
氏の業績は次の通りである。
【森里海連環学の提唱-稚魚の生態に学び自然を再生する】
氏は、滋賀県大津市に生まれ、子供のころの琵琶湖周辺での魚釣りや昆虫採集などの原体験から、京都大学農学部水産学科に入学し、魚の研究への歩みを始めた。卒業論文で、クサフグが生後間もない体長3mm前後より腹部を膨満させる習性を発見し、魚類初期生活史研究の道に踏み込んだ。当時は、魚類の個体発生初期に関する研究分野は未開拓であったが、日本は世界に先駆けて栽培漁業を展開し始め、多くの仔稚魚の飼育技術の開発が進められた。この世界には類のない優れた研究条件を生かして10数種の仔稚魚を飼育し、組織学的手法によって消化系の構造と機能に関する比較研究に取り組み、魚類初期生活史研究の本格的幕開けに貢献した。
氏は1974年に西海区水産研究所の研究員に着任するとともに、仔稚魚の野外研究へと進み、長崎県平戸島志々伎湾においてマダイの初期生態に関する総合研究に加わり、多くの異分野研究者との共同研究を10年間行う機会に恵まれた。この研究を通じて生物と環境の関係や沿岸生態系が果たす掛け替えのない魚類育成機能を認識するに至った。その研究は、我が国の水産分野における初めてのモデル的な総合研究として注目を集め、氏は異分野共同研究の重要性を学んだ。それは、20世紀後半における科学の急速な専門細分化への道に対する、後に芽生える問題意識の土壌を形成するものであった。
このマダイの総合研究は、同時に採集されるヒラメなど多くの沿岸性魚類の個体発生初期における“接岸回遊”の存在を明らかにする成果を生みだした。沖合で生まれた仔魚は沿岸域に広く分散し、数十日の浮遊生活を経た後、稚魚への変態とともに、陸と海の境界域に当たる砂浜海岸、干潟域、河口域、藻場などの沿岸浅所に集まり、そこを不可欠の成育場とすることを解明した。
1982年に、稚魚研究の恩師岩井 保先生(京都大学農学部教授)のもとに戻る機会に恵まれた氏は、ヒラメやスズキを主な研究対象に、形態学や生態学に加えて、生理学的研究にも範囲を広げ、より多面的に仔稚魚の生残機構を解明する研究を進めた。ヒラメ稚魚生態の地域的特性に関する研究を、1991~2003年に鹿児島から北海道に至る全沿岸域を対象に行い、稚魚の生息は川の流入や湧水と深く関わることを解明し、「白神山地のブナ林が日本海のヒラメ稚魚を育む」仮説を生み出した。同時に、稚魚の成育場が次々と埋め立てなどにより消失する現実に直面した。これらの研究を通じて、生物の本質を理解し保全するには、長期的視点、広域的視点、総合的視点が極めて重要であることを学んだ。これらが基盤となって、京都大学フィールド科学教育研究センターの設置に貢献し、2003年に、地球の基本生態系である森林圏と海洋圏をつなぐ、新たな統合学問「森里海連環学」を提唱するに至った。
【森里海連環学の展開-有明海再生への道を拓く】
我が国沿岸環境と沿岸漁業再生の試金石は有明海にあることを基本に、氏は1970年代後半から有明海の命の源である筑後川河口域における仔稚魚とその生息環境に関する研究を継続している。それは、有明海が“宝の海”と呼ばれるほど生物生産性と生物多様性が豊かな海であったにもかかわらず、多くの大規模な環境改変が集中し、20世紀後半から急速に瀕死化の道を辿る、“悲劇”の海に至っているからである。1980年以来34年にわたる基礎研究の結果、我が国では有明海にしか生息しない多くの特産種の稚魚は、九州最大河川である筑後川の河口域で育まれていることを明らかにした。それは、“濁りの海”有明海を特徴づける有機懸濁物が河口域において不断に生成され、特産カイアシ類やアミ類の大増殖を促し、特産稚魚の生産へとつながる連鎖の解明である。河口濁度極大域における有機懸濁物の生成は、有明海の“心臓機能”であり、筑後川上流域の阿蘇・九重山系からもたらされる火山性の微細鉱物粒子を核に、微生物などにより栄養強化され、この海の生物生産性と生物多様性の豊かさの共通の源となり、「阿蘇・九重山系が有明海の稚魚を育む」ことを解明している。
有明海瀕死化の主要因は、20世紀後半の50年にわたり筑後川河川敷から膨大な量の砂利を取り上げたこと、1985年に筑後大堰を設置して大量の水を福岡都市圏に回し続けていること、1997年に諫早湾潮受け堤防を設置し我が国最大規模の軟泥干潟を埋め立てたことの三つである。氏は問題の本質は、これらすべては“森と海のつながりの分断“そのものであることを見抜き、社会へ問題を提起し続けている。2010年12月の福岡高等裁判所の「開門調査」の判決に対して、2013年11月には長崎地方裁判所において「開門差し止め」の判決が出され、諫早湾・有明海の再生は今混迷の極に至っている。開門を求める漁業者と開門により塩害を受けると反対する農業者が対立せざるを得ない構図が作りあげられている。氏は、農業と漁業は森に涵養された栄養豊かな水に共通の基盤を持つ一次産業であり、本来相互に連携・補完する必然性があるとの「森里海連環」の理念に立ち返ることこそ、本質的な解決の道であるとの考えを提示している。
周囲を山々に囲まれ大河筑後川が流れ込む有明海は、森里海連環そのものの存在であり、2010年より市民・漁民・研究者の輪を広げながら、「森里海連環による有明海再生」を、筑後川流域におけるシンポジュウム・講演会などを通じ、次世代につなぐ実践を行っている。その柱として、有明海の“腎臓/肺”機能を担う干潟の再生を位置付け、柳川市に生まれたNPO法人「SPERA森里海・時代を拓く」を拠点に、里(流域)に住む人々、とりわけ次世代の環境意識の変化を生み出す取り組みを進めている。氏は、高度経済成長期以来50年わたって壊し続けた有明海を再生するには、それに見合う時間が必要であるとの“長期的視点”、筑後川流域の海から日田の森までをつなぐ“広域的視点”、市民・漁業者・研究者・行政担当者に学校関係者と小中高生など多様な人々の輪を結びあう“総合的視点”に基づく、里の人々のロ―カルパワーの形成に努めている。
【森里海連環学の深化-大震災の復興から持続社会を展望する】
2003年に誕生した森里海連環学は、科学の内部において専門細分化した分野を統合化する挑戦であり、同時に科学の内と外をつなぎ、学問の開放を生み出すものである。それは、我が国を被う縦割りの硬直した構造と思考を打破し、壊し続けた自然の再生を目標とする新たな学問である。氏は、現役時代に京大フィールド研社会連携教授に招いたカキ養殖漁師畠山重篤氏の協力のもとに、森は海の恋人の故郷である気仙沼舞根湾において森から海までのつながりのフィールド教育を進め、画期的な成果を上げた。
2011年3月11日に東北太平洋沿岸域を直撃した巨大な地震と津波は、今では我が国を代表する社会運動に成長した“森は海の恋人”を壊滅の危機に追い込んだ。氏は、震災直後に「森は海の恋人緊急支援の会」を立ち上げ、NPO法人ものづくり生命文明機構の安田喜憲東北大学教授などと共に、森は海の恋人緊急支援現地研究会を開催し、森は海の恋人とその学問的基礎を築く森里海連環学こそ、大震災から復興を乗り越え、新たな持続社会を築く基本理念であるとの考えの普及に努めた。
三陸の基幹産業であるカキやホタテガイの養殖業を再開するために、海の中の様子を一刻も早く知りたいとの漁師の切実な思いと、この千年に一度の大震災が沿岸生態系に及ぼした影響と回復の過程を調べ、「歴史の証言」として世界に発信し、続く世代に伝えることは今を生きる者の責務との考えに基づき、全国の研究者に呼びかけ、NPO法人森は海の恋人との連携によるボランティア調査「気仙沼舞根湾調査」を2011年5月に立ち上げ、森から海までをつなぐ総合的な調査を継続し、社会的関心を集めている。
全国から異分野の多くの研究者や学生が集まって進める合同調査の結果、地震による地盤沈下によって湾奥部に蘇った湿地や干潟環境には、いち早く多くの生き物たちが蘇る様子を解明しつつある。これらの知見は、地域の人々に大きな希望を与え、再び海と共に生きる気持ちを固める原動力となった。しかし、三陸沿岸には森と海のつながりを断ち切る深刻な問題が生まれている。命を物理的に守ることを理由に、ほとんどすべての浜にコンクリートの巨大な防潮堤が造られようとしている。氏は、海と水産の研究者として、またNPO法人森は海の恋人理事として、この問題が表面化した2012年7月以来、問題の深刻さを訴え続けてきた。もうひとつの深刻な問題は、関東北部から東北太平洋側一円の森に降り注いだ放射性物質が、川を通じて河口域に流れ、さらに物理的過程並びに生物的過程を通じて沿岸域から広く海洋に広がることである。この過程は中長期的に、また極めて広域的に進行し、福島原子力発電所直下から漏れだす放射性物質よりはるかにレベルが低いだけに、現状の我が国の縦割り的研究機関では追跡されない問題である。この不幸な森と海の負の連鎖は、まさに森里海連環学の課題そのものであり、氏が代表を務める研究グループは、森は海の恋人運動が展開される一関市室根町矢越山に源を発する大川を通じて気仙沼湾に至る流域をモデルに、放射性物質の森から海への移行を追跡しつつある。
25年にわたる森は海の恋人運動の展開、10年にわたる京都大学による森里海連環フィールド教育の実施、大震災直後からの気仙沼舞根湾調査の展開などの実績が評価され、氏が震災直後に提案した「舞根森里海研究所」の建物が(公益財団法人)日本財団の復興支援番屋プロジェクトの一環として実現することとなった。NPO法人森は海の恋人が管理するこの研究所には、国内外の若手研究者や大学院生を招聘し、自由な発想のもとに異分野融合の森里海連環研究の展開と、それらを小中高生の環境教育と結び、その成果を広く国内外に発信する拠点形成が展望されている。社会運動「森は海の恋人」と統合学問「森里海連環学」の連携に未来を託す挑戦である。
以上のように、氏は、日本周辺からウナギやアサリが急速に姿を消し、土用の丑の日のかば焼きを食べる食習慣や春の風物詩である潮干狩りなど海とかかわる文化が消えゆく先に確かな未来はないとの信念に基づき、森里海連環学の深化とその理念の普及の先に持続循環的な世界を見据えて、つながりの価値観の形成に全力を注いでいる。